凡例戸田 忠太夫
戸田忠太夫
時代江戸時代末期(幕末)
生誕文化元年(1804年)
死没安政2年10月2日(1855年11月11日)
改名幼名:亀之介(かめのすけ)、諱:忠敞(ただあきら)、号:蓬軒(ほうけん)、清洲
別名通称:銀次郎(ぎんじろう)
墓所茨城県水戸市 酒門共有墓地
官位贈正四位
幕府江戸幕府
藩水戸藩家老
氏族戸田氏
父母父:戸田三衛門忠之、母:安島七郎左門衛門信可の娘
兄弟姉(里見四郎左衛門室)、忠太夫、安島帯刀
妻岡野行従の娘
子銀次郎
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戸田 忠太夫(とだ ちゅうだゆう)は、日本の幕末(江戸時代・幕末)における水戸藩家老で、尊王派の志士として知られる。
水戸戸田家第7代当主。家老職拝命の際、主君・徳川斉昭より忠太夫の仮名を与えられる。諱から戸田忠敞、号から戸田蓬軒と呼ばれることも多い。 文化10年(1813年)、家督を継いで200石小普請組となる。文政3年(1820年)には大番組頭、文政11年(1828年)には目付となる。その頃、水戸藩に継嗣争いが起こり、徳川将軍家より養子を擁立しようとする一派に対抗し、中下士層を率いて聡明と聞こえる水戸藩第7代藩主・徳川治紀の三男である敬三郎を擁立する。これによって敬三郎が跡目(家督の後継者)となり、徳川斉昭となる。 斉昭が水戸藩主になると、忠太夫は藤田東湖とともに斉昭を支えることとなる。戸田忠太夫と藤田東湖は世に「水戸の両田(みとのりょうでん)」と称され[* 3]、尊王の志と学識を具えた優れた指導者として知られるようになった。水戸の両田に武田耕雲斎を加えて「水戸の三田」とも称される[* 4]。 天保元年(1830年)には藩内争議のため、無願出府して免職され、留守居同心頭列となるものの、斉昭の意向により同年3月(西暦換算:4月頃[* 5])に江戸通事として復帰した。 天保6年4月(1835年5月頃[* 6])には格式旗奉行上座用人見習、8月(西暦換算:10月頃[* 7])、格式用人列御側用人見習。天保7年8月(1836年9月頃[* 8])には御側用人まで昇任、9月(西暦換算:10月頃[* 9])にはさらに和歌年寄代となる。天保9年(1837年)、馬廻組頭上座となる。天保10年11月(1839年12月頃[* 10])、水戸藩若年寄となり、与力同心をつけられることとなる。12月(西暦換算:1840年1月頃[* 11])には郷村懸鷹方馬方支配兼務となる。 天保11年2月(1840年3月頃[* 12])には学校造営懸となって弘道館を造営に参与する。8月(西暦換算:9月頃[* 13])には大寄合上座用達となる。10月(西暦換算:11月頃[* 14])には学校造営懸総司と要職を歴任する。 水戸藩における天保の改革として、領内総検地、海防準備、学校創設、寺社改革において重きをなし、弘化元年(1844年)に斉昭が幕疑を受けて致仕すると、同年5月(西暦換算:6月か7月[* 15])、忠太夫は藤田東湖ともども免職され、蟄居謹慎を命ぜられる。 斉昭への譴責が緩むにつれて忠太夫・東湖も復帰がかない、弘化3年(1846年)に蟄居を免じられて、中寄合となって水戸表での遠慮が命じられた。弘化4年(1847年)に致仕となると、しばらく政界から退いた。同年9月21日、老中・阿部正弘が水戸藩付家老・中山信守を召し出し、水戸藩保守派頭目の結城寅寿の罪状を詰問すると同時に、忠太夫・東湖の遠慮の宥免と入獄させている領民を釈放をすべきであると諭したが、この時は宥免されなかった。 嘉永5年(1852年)に入り、慎みが解けると蓬軒の号を用いるようになった。嘉永6年(1853年)に斉昭が幕府により海防参与
系譜[* 2]の後裔にして水戸藩の世臣であった戸田三衛門忠之の嫡男として生まれる。母は安島七郎左門衛門信可の女。歴代の知行は代々1300石。家紋は六曜。
生涯