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出典検索?: "戸田氏鉄"
凡例戸田氏鉄
戸田氏鉄像
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕天正4年(1576年)3月
死没明暦元年2月14日(1655年3月21日)
改名重氏(初名)→氏鉄→常閑(法名)
別名左門(通称)
戒名覚岸院殿長誉常閑大居士
墓所岐阜県大垣市西外側町の円通寺
官位従五位下、采女正、従四位下
贈従三位
幕府江戸幕府
主君徳川家康→秀忠→家光→家綱
藩近江膳所藩主→摂津尼崎藩主→美濃大垣藩主
氏族多米戸田氏
父母父:戸田一西、母:真木氏常の娘
兄弟氏鉄、正直、為春、勝興
妻正室:諷(松平康長の娘)
子氏信、氏経、頓誉上人、氏頼、頼鉄、氏照、利鉄、玉樹院、於才、松光院、於玉
特記
事項豊臣秀吉の埋葬状況などを記す『戸田左門覚書』を残している。
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戸田 氏鉄(とだ うじかね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣。近江膳所藩第2代藩主、摂津尼崎藩主、美濃大垣藩初代藩主。大垣藩戸田家2代。戸田一西の長男。 天正4年(1576年)3月、三河国二連木(現・愛知県豊橋市仁連木町)にて、戸田一西の長男として誕生した。 はじめ徳川家康の近習として仕えた。文禄4年(1595年)10月21日、従五位下采女正となった(後に従四位下)。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに従軍した。慶長8年(1603年)、父の一西の死により家督を継ぎ、近江国膳所藩主となった。大坂の陣では居城の膳所城の守備に徹することを命ぜられ、戦後の元和元年(1615年)に摂津尼崎5万石へ移封された。寛永12年(1635年)7月28日、美濃国大垣10万石へ移封された。 寛永14年(1637年)の島原の乱において、後発で派遣された主将格の松平信綱の下、副将格に任じられ兵2千500を伴い出陣した。実戦経験の少ない幕府軍の中で、乱の鎮圧に功があった。最終決戦の前の軍議では、総攻撃ではなく包囲兵糧攻めの継続を意見している。[1]。 江戸幕府において、寛永10年(1624年)の大坂城修築、島原の乱においての戦功などの働きがあった。4代将軍徳川家綱誕生の際の臍の緒を切断する箆刀
生涯
慶安4年(1651年)11月28日に隠居した後は、入道して常閑と号した。明暦元年(1655年)、80歳で大垣において死去した。家督は長男の氏信が継いだ。
藩政の成功を賞して、現在の岐阜県大垣市大垣公園(大垣城跡)に、氏鉄の銅像が建てられている。父の一西以来、代々の子孫は大垣の常葉神社にて祭神として祀られている。また、尼崎藩主として尼崎城築城と共に行った治水事業の功績が称えられ、兵庫県尼崎市と大阪市西淀川区佃の府県境を流れる左門殿川や左門橋として、その名を残している。
明治42年(1909年)9月11日、贈従三位。
系譜
父:戸田一西
母:真木氏常の娘
正室:諷 - 松平康長の娘[2]
長女:玉樹院 - 直江景明室のち板倉重宗継室
長男:戸田氏信(1600-1681)
次女:於才(栄春院) - 本多正勝正室
次男:戸田氏経
四女:松光院 - 松平忠国室
五男:戸田頼鉄
六男:戸田氏照
七男:戸田利鉄
側室:蒲生氏
四男:戸田氏頼
生母不明の子女
三男:頓誉上人
三女:於玉 - 戸田正家室
脚注^ 乱の褒賞として、戦後に正宗の短刀を下賜されている。「満座の中で三万石加増しようか、この短刀をやろうかといわれて戸田采女正が、まさか三万石くれともいわれませんしな、そこが大名気質ですな、(御短刀拝領)と云ふわけで拝領されたのです。」という話が伝わる本阿弥光遜『刀剣鑑定秘話』金竜堂出版部、1941年11月5日。
^ 生母は徳川家康の異父妹松姫。
表
話
編
歴
戸田家膳所藩2代藩主 (1604年 - 1616年)
戸田家
戸田一西1601-1604
戸田氏鉄1604-1616
摂津尼崎藩に転封
本多家
本多康俊1617-1621
本多俊次1621
三河西尾藩に転封
菅沼家
菅沼定芳1621-1634
丹波亀山藩に転封
石川家
石川忠総1634-1650
石川憲之1651
伊勢亀山藩に転封
本多家
本多俊次1651-1664
本多康将1664-1679
本多康慶1679-1714