戸田城聖
[Wikipedia|▼Menu]

戸田城聖
1951年5月3日東京都墨田区にて
肩書き第2代 創価学会会長
個人情報
生誕1900年2月11日
日本 石川県加賀市
死没 (1958-04-02) 1958年4月2日(58歳没)
日本 東京都千代田区 駿河台日本大学病院
配偶者戸田幾枝
出身校中央大学経済学部中退[1]
地位
就任日1951年5月3日
退任理由在職中に死去
過去の地位初代 創価学会理事長
テンプレートを表示

戸田 城聖(とだ じょうせい、1900年明治33年〉2月11日 - 1958年昭和33年〉4月2日)は、日本宗教家教育家実業家、数学者。

創価教育学会理事長(初代)、創価学会会長(第2代)、法華講総講頭などを歴任した。

出生名、戸田 甚一(とだ じんいち)。数度の改名を経て「城聖(じょうせい)」と名乗る。戒名は、大宣院法護日城大居士。
略歴厚田公園内の戸田城聖生家

1900年明治33年)2月11日 - 石川県江沼郡塩屋村(現:加賀市塩屋)に、北前船の仲買商の父「甚七」と母「すえ」の七男「甚一」として誕生。

1902年(明治35年) - 一家で北海道厚田郡厚田村へ移住。

1908年(明治41年) - 厚田尋常小学校に入学する。

1917年大正6年)

小学校の准教員資格試験に合格する。

2月22日 - 「桜桃」と改名。それ以前には「桜心」と改名している。

11月20日 - 「清通」と改名。


1918年(大正7年)

5月3日 - 「雅晧」と改名。

夕張の真谷地尋常小学校の代用教員として採用される。

12月 - 夕張の真谷地尋常小学校の正教員試験に合格する。


1920年(大正9年) - 上京、牧口常三郎を訪ねる[2][信頼性要検証]。開成中学夜間部(のちの昌平高校)に入学する。

1921年(大正10年) - 「博方」と改名。入所前に「城外」と改名。戦前は「城外」で通す。戦後「城聖」と改名。

1925年(大正14年) - 中央大学予科入学。

1928年昭和3年) - 牧口が日蓮正宗の法華講員三谷六郎(素啓)に折伏されると、戸田も牧口とともに日蓮正宗に入信した。中央大学経済学部入学。

1930年(昭和5年) - 牧口が創価教育学体系を著す。

1943年(昭和18年)

6月 - 日蓮正宗総本山大石寺に呼ばれた牧口と戸田らは、軍部から強制された神札受け取りを拒絶する(「神札問題」)[3][信頼性要検証]。その後、創価教育学会は大石寺から登山停止を言い渡される。

7月 - 治安維持法違反・明治神宮に対する不敬罪[2][信頼性要検証]容疑で、牧口ととも[2][信頼性要検証]に逮捕される。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:59 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef