戸田城聖
1951年5月3日、東京都墨田区にて
肩書き第2代 創価学会会長
個人情報
生誕1900年2月11日
日本 石川県加賀市
死没 (1958-04-02) 1958年4月2日(58歳没)
日本 東京都千代田区 駿河台日本大学病院
配偶者戸田幾枝
出身校中央大学経済学部中退[1]
地位
就任日1951年5月3日
退任理由在職中に死去
過去の地位初代 創価学会理事長
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戸田 城聖(とだ じょうせい、1900年〈明治33年〉2月11日 - 1958年〈昭和33年〉4月2日)は、日本の宗教家、教育家、実業家、数学者。
創価教育学会理事長(初代)、創価学会会長(第2代)、法華講総講頭などを歴任した。
出生名、戸田 甚一(とだ じんいち)。数度の改名を経て「城聖(じょうせい)」と名乗る。戒名は、大宣院法護日城大居士。
略歴厚田公園内の戸田城聖生家
1900年(明治33年)2月11日 - 石川県江沼郡塩屋村(現:加賀市塩屋)に、北前船の仲買商の父「甚七」と母「すえ」の七男「甚一」として誕生。
1902年(明治35年) - 一家で北海道厚田郡厚田村へ移住。
1908年(明治41年) - 厚田尋常小学校に入学する。
1917年(大正6年)
小学校の准教員資格試験に合格する。
2月22日 - 「桜桃」と改名。それ以前には「桜心」と改名している。
11月20日 - 「清通」と改名。
1918年(大正7年)
5月3日 - 「雅晧」と改名。
夕張の真谷地尋常小学校の代用教員として採用される。
12月 - 夕張の真谷地尋常小学校の正教員試験に合格する。
1920年(大正9年) - 上京、牧口常三郎を訪ねる[2][信頼性要検証]。開成中学夜間部(のちの昌平高校)に入学する。
1921年(大正10年) - 「博方」と改名。入所前に「城外」と改名。戦前は「城外」で通す。戦後「城聖」と改名。
1925年(大正14年) - 中央大学予科入学。
1928年(昭和3年) - 牧口が日蓮正宗の法華講員三谷六郎(素啓)に折伏されると、戸田も牧口とともに日蓮正宗に入信した。中央大学経済学部入学。
1930年(昭和5年) - 牧口が創価教育学体系
教職者として戸田は現場教育に必要なものをまとめ上げ、文部大臣に建白書を提出する。20歳の時に上京。牧口常三郎に出会い、東京市立西町尋常小学校の代用教員として採用された。その後、一時期は教職を退き職を転々とする傍ら、院外団に身を投じ、犬養毅の側近であった立憲政友会所属の衆議院議員古島一雄の知遇を得る。 妻子を病気で失い、自らも肺結核を患う中、日蓮正宗信徒になった牧口常三郎の折伏によって戸田も入信。前後して、受験準備のための学習塾「時習学館」を主宰[5]、学習参考書の走りともいえる『推理式指導算術』を出版する。『推理式指導算術』は評判を呼び、100万部を超えるベストセラーとなった。当時の受験生からは「受験の神様」と呼ばれる。 これをきっかけにして本格的に出版事業に乗り出し、「日本正学館」を設立。牧口の教育理論である『創価教育学体系』や、同郷の作家子母澤寛の小説などの出版を手がける。この『創価教育学体系』の初版が発刊された1930年(昭和5年)11月18日を創価教育学会の設立日としている。なお、牧口の著作は「創価教育学会」が出版した。戸田は出版業以外に金融業や証券業にも乗り出し、事業家として一定の成功を収める。1940年(昭和15年)の第2回総会で正式に創価教育学会理事長に就任し、学会の活動を主に財政面で支えた。 1943年6月、牧口とともに日蓮正宗総本山大石寺に呼ばれた戸田らは、第62世管長・鈴木日恭と堀日亨同席の下、庶務部長から「学会も一応、神札を受取けるようにしてはどうか」と申し渡されたがこれを拒絶する(「神札問題」)[6][信頼性要検証]。
入信と事業経営