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出典検索?: "戸田和幸"
戸田 和幸
名前
カタカナトダ カズユキ
ラテン文字TODA Kazuyuki
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1977-12-30) 1977年12月30日(46歳)
出身地神奈川県相模原市[1]
身長178cm
体重74kg
選手情報
ポジションDF / MF
利き足右足
ユース
桐蔭学園高校
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1996-2002 清水エスパルス 163 (2)
2003→ トッテナム (loan) 4 (0)
2004→ ADOデン・ハーグ (loan) 16 (0)
2004 清水エスパルス 12 (0)
2005 東京ヴェルディ 23 (0)
2006-2008 サンフレッチェ広島 62 (2)
2008→ ジェフユナイテッド千葉 (loan) 12 (0)
2009 慶南FC 6 (0)
2010-2011 ザスパ草津 23 (2)
2012 FC町田ゼルビア 2 (0)
2013 ウォリアーズFC 17 (0)
代表歴2
1993 日本 U-17
1996-1997 日本 U-20
2001-2002 日本20 (1)
監督歴
2021一橋大学ア式蹴球部
2023-SC相模原
1. 国内リーグ戦に限る。2013年12月13日現在。
2. 2018年2月8日現在。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
戸田 和幸
YouTube
チャンネル
戸田和幸「SHIN_KAISETSU」
活動期間2017年5月27日 -
ジャンルサッカー
登録者数約9.98万人
総再生回数約783万回
チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002023-03-18-00002023年3月18日時点。
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戸田 和幸(とだ かずゆき、1977年12月30日 - )は、神奈川県相模原市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者、サッカー解説者。現役時代のポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー。
Kリーグ時代の登録名は戸田(ハングル: ??)[2]。 東京都町田市生まれで、その後に相模原市へ転居。小学3年からサッカーを始めた[3]。桐蔭学園高を卒業後、1996年に清水エスパルスに入団。1999年、不動の3バックの一角として清水のステージ初制覇に貢献した。同年のジュビロ磐田とのチャンピオンシップ第1戦では風邪で欠場した。2001年にはカルロス・サントスの移籍による穴を埋めるため、ゼムノビッチ監督によってボランチへとコンバートされた。 2003年、2002年W杯の活躍によりイングランド・プレミアリーグのトッテナム・ホットスパーFCに移籍[4]。2004年にはオランダ・エールディヴィジのADOデン・ハーグに移籍したが、いずれも満足な成績を残せず、2004年のJリーグ2ndステージから再び清水エスパルスに復帰した。 2005年、東京ヴェルディへ移籍。レギュラーとして活躍するも、チームの調子は上がらず、東京VはJ2に降格。再び移籍を選んだ。 2006年からはサンフレッチェ広島へ期限付き移籍。ミハイロ・ペトロヴィッチ監督の方針により、清水時代以来となる3バックのリベロで出場すると共に、移籍1年目途中からゲームキャプテンも務めた。完全移籍した翌2007年もリベロでレギュラー出場したものの、広島は京都との入れ替え戦に敗れてJ2降格。複数年契約を結んでいたため翌2008年も広島でのプレーを選んだが、DFではなくボランチでの起用を望んだ結果、森崎和幸や青山敏弘らとのポジション争いに敗れ出場機会が激減した。 同年6月、結城耕造とのトレードの形でジェフユナイテッド千葉へ期限付き移籍。怪我が重なって出場試合数は多くなかったが、戸田の出場した試合ではわずか1敗と、千葉のJ1残留に貢献した。シーズン終了後、広島・千葉双方から戦力外通告を受け一時無所属となるが、韓国・Kリーグの数クラブで練習に参加し、2009年3月に慶南FCと契約。しかし、怪我による離脱が長引き、出場は9試合に終わった。 2010年、ザスパ草津へ完全移籍したが、2011年11月17日、契約満了により退団した[5]。2012年にはこの年からJ2に参入した地元クラブであるFC町田ゼルビアに加入するも[6]、監督オズワルド・アルディレスとの確執[7] から出場機会は無きに等しく1年限りで退団した。 2013年、SリーグのウォリアーズFCに入団。同年11月14日、自身のブログで2013シーズン限りでの現役引退を発表した。
来歴
クラブ
日本代表