戸田勝隆
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 凡例戸田 勝隆
時代戦国時代安土桃山時代
生誕生年不詳
死没文禄3年10月23日1594年12月4日
別名氏繁[1]、氏知[2]、政信[3]、永則[4]
通称:三郎四郎、民部少輔
官位民部少輔
主君織田信長豊臣秀吉
氏族戸田氏(非三河系)
兄弟勝隆、勝成
子男子(夭折)、女(鍋島勝茂室)
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戸田 勝隆(とだ かつたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名伊予大洲城(地蔵ヶ岳城)主。豊臣秀吉の家臣。通称は三郎四郎、民部少輔で、戸田民部少輔の称でも知られる。諱は氏繁(うじしげ)[1]、氏知(うじとも)[2]、政信(まさのぶ)[3]など複数伝わり実名がはっきりしないが、古文書の本人署名には勝隆とある[2]
生涯

出自不明[8]。弟に戸田勝成(重政)がいる。

初め織田信長に仕え[9]、その後、織田家の臣・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣となった。秀吉の家臣としては古参の部類になる[10]

天正元年(1573年)、近江長浜で250貫文を与えられ、大母衣衆に選ばれた[2]。天正5年(1577年)、秀吉が播磨姫路城主となった際に、5,000石に加増された[2]。『武家事紀』には宮田光次神子田正治尾藤知宣らと並んで、「これに越える勇功の士あらず」とあり、秀吉家臣団の中でも特に高名であった[11]。天正10年頃、母衣改選のとき黄母衣衆で筆頭に選ばれた[2]

天正12年(1584年)、小牧の役に従軍[2]。天正13年(1585年)、四国の役では阿波木津城の攻撃に参加[2]

また勝隆は近江の検地奉行や城割奉行なども務めている。千利休津田宗及主催の茶会にも名を連ねた。

天正15年(1587年)、九州の役では福島正則・生駒親正蜂須賀家政ら四国諸大名と共に海上輸送を担った。同役の途中である2月12日、勝隆は伊予宇和郡板島丸串城7万石に封じられた[2]。また蔵入地である喜多郡土谷山村の代官職にも任じられた。同役の終了後である同年9月5日に伊予今治を与えられた福島正則は、秀吉からの朱印状において「伊予は九州・中国之かなめ所」として勝隆との連携を指示されている。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}『予章記』によると正則の代官領は9万石、勝隆が10万石であった[要出典]。戦後は黒田孝高毛利勝信らと検地に加わり、7月に発生した肥後国人一揆にも援軍に赴いた。

勝隆の伊予支配は、当初より民衆・国衆の反撥を買った。勝隆に新恩が与えられた後も、まだ旧領主の西園寺公広毛利氏を介して秀吉に対して所領安堵の嘆願を続けていたからである。6月、頼みとした小早川隆景が筑前に移封されると、8月、公広・土居清良・勧修寺基詮・法華津前延以外の伊予西園寺氏の旧臣たちは38の城からすべて下城するように命じられた[12]。12月には公広も黒瀬城を去って、九島の願成寺に入った[12]

勝隆は地蔵ヶ岳城(大洲城)を主城とし、黒瀬城には城代の岩城小右衛門尉信家を、板島丸串城には城代の戸田左衛門信種[13]を入れた[12]。法華津前延は小早川氏を頼って筑紫に退き、勧修寺基詮は京都に上り、土居清良は郷里に退き、庵を結んだ[12]。板島丸串城を改修して現在の宇和島城の概形を造ったのは勝隆であった。蔵入地の下代官には、河野氏旧臣で現在も宗意原という地名に名を残す当地の土豪・豪商の武井宗意を任命した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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