凡例戸田一西
戸田一西像
時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕天文12年(1543年)
死没慶長9年7月25日(1604年8月20日)
改名政成(初名)→一西
別名左門、新次郎、十兵衛(通称)
墓所滋賀県大津市丸の内町
戸田 一西(とだ かずあき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣。近江大津藩主、同膳所藩初代藩主。大垣藩戸田家初代。多米戸田氏の戸田氏光の長男。 一西を祖とする大垣藩主戸田家は、戸田氏宗家の支流だが一西の代には既に独立し別家となっていたといわれ、宗家とは別個に徳川氏の下に伺候し、別家召出
生涯
一西は三河国吉田(現在の愛知県豊橋市)生まれ。永禄年間、三河国渥美郡多米地域を領していたとされ[注釈 2]、吉田城攻めの頃には徳川家康に仕え、その三河譜代の家臣となった。天正3年(1575年)従五位下采女正を叙任。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣し、伊豆国山中城を攻略した。同年、家康の関東入りに従い、武蔵国鯨井(現埼玉県川越市鯨井)に5,000石を賜う。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従って信濃上田城の真田昌幸を攻めた。このとき、上田城攻めにこだわる秀忠にただ一人反対した事から後に家康に賞された。秀忠の関ヶ原遅参について、家康は大いに怒り、周囲の者は皆諌めなかったのかと言ったといい、一西は自分が諌めたが受け入れられなかったと述べた。家康は今後は一西の言うことを用いられる様にしたいといい、自ら采を取り一西に授けた。一西はこれを受け感涙にむせたという[1]。慶長6年(1601年)2月、家康の命による近江国膳所の築城を成し遂げた功績により、同地に3万石の所領を与えられ膳所藩を興した[1]。一西は藩政安定のため、元の所領であった武蔵川越から琵琶湖に琵琶湖在来種より大型種のシジミ貝を移入させ、この紅しじみの漁を奨励した。紅しじみは膳所の特産品となり、一西の通称である左門に因んで「左門しじみ」もしくは「瀬田しじみ」と呼ばれるようになり、しじみ汁は京都で珍重された[1]。
慶長9年(1604年)に死去[1]。享年62[1]。死因は落馬によるものといわれる[1]。跡を長男の氏鉄が継いだ。大正6年(1917年)11月17日には従三位を追贈された[2]。なお一西以下、代々の子孫は大垣の常葉神社にて祭神として祀られている。 父母
系譜
戸田氏光
正室
真木氏常の娘
子女
戸田氏鉄(長男)
戸田正直(次男)
戸田為春(三男)
戸田勝興(四男)
山口直友室
三宅康信正室
内藤正成室
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 新井白石『藩翰譜』では、元は戸田氏ではないとする説を紹介している。また、『今橋物語』『牛窪密談記』などの江戸時代初期編纂の記録類に享禄2年(1529年)松平清康との下地合戦(豊橋市下地町)で今橋牧野家が敗亡する際に一族の牧野新三郎(新三)が生き延び、赤岩村の法言寺(現在の愛知県豊橋市多米町字赤岩山の赤岩寺)に逃れ、後に戸田氏を嗣いだという記述がある。越後長岡藩牧野家の『牧野家系図』や関係文書には牧野古白の弟として牧野成村(新蔵・新蔵左衛門尉)と記し、その子・成宗(新二郎)が今橋城落失のおり赤岩邑の法言寺に逃れ、後に戸田氏を嗣いだとする。しかし、これらの人物が戸田一西と同一であるかは明らかにされていない。
^ 『八名郡史』によれば、渥美郡赤岩村の法言寺の永禄11年3月(1568年4月)棟札に記された戸田左門は一西と推定されている。
出典^ a b c d e f 山下昌也 編『家康の家臣団 - 天下を取った戦国最強軍団』学研M文庫、2011年、p.167
^ 「官報 第1590号」1917年11月19日
参考文献
書籍
山下昌也『家康の家臣団 - 天下を取った戦国最強軍団』学研M文庫、2011年
堀田正敦等編『新訂 寛政重修諸家譜 第十四』続群書類従完成会、1965年。
新井白石(原著)『新編 藩翰譜 第二巻』人物往来社、1967年。
豊橋市史編集委員会編『豊橋市史 第1巻 - 原始・古代・中世編』豊橋市、1973年。
久曽神昇、 近藤恒次編 『近世三河地方文献集』国書刊行会、1980年。
鈴木重安編『八名郡誌』臨泉書店、1972年、鈴木宇良安著(1956年刊)の複製。
表
話
編
歴
戸田氏大津藩藩主 (1601年)
立藩
戸田一西1601
膳所に城を築き、膳所藩に移転し、廃藩
表
話
編
歴
戸田氏膳所藩初代藩主 (1601年 - 1604年)
戸田家
戸田一西1601-1604
戸田氏鉄1604-1616
摂津尼崎藩に転封
本多家
本多康俊1617-1621
本多俊次1621
三河西尾藩に転封
菅沼家
菅沼定芳1621-1634
丹波亀山藩に転封
石川家
石川忠総1634-1650
石川憲之1651
伊勢亀山藩に転封