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出典検索?: "戸沢正誠"
凡例戸沢 正誠
時代江戸時代前期?中期
生誕寛永17年10月13日(1640年11月26日)[1]
または同年7月13日(8月29日)とも[2]
死没享保7年2月3日(1722年3月19日)
改名千代鶴(幼名)→正誠
戒名大輝院鳳山徳公
墓所山形県新庄市の桂嶽寺
官位従五位下、能登守、上総介
幕府江戸幕府
藩出羽国新庄藩主
氏族戸沢氏
父母父:戸沢政盛
母:於佐古(久照院・楢岡光信の娘)
兄弟戸沢定盛正室、加藤泰興継室、正誠
妻正室:浅野光晟の娘
子正武(三男)、娘(久留島通政正室)、
娘(青木重矩正室)、須和子(戸沢正成正室)
養子:正庸
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戸沢 正誠(とざわ まさのぶ)は、出羽国新庄藩の第2代藩主。初代藩主・戸沢政盛の次男。 慶安元年(1648年)、父が死去したが、正誠が若年であることと末期相続を理由に最初は家督相続を認められなかった。藩が老中松平信綱ら幕閣に働きかけた結果、二年後の慶安3年(1650年)8月7日になってようやく相続が許された。このあたりは幕府の外様大名に対する対応が現れていると思われるが、二年間も藩主不在であったにも関わらず、改易にもならなかったのは異例である。
経歴
『土芥寇讎記』では、悪くはないが、男色や美童好きを止めたほうが良い君主になれる、と評されている。
貞享3年(1686年)に実子の正武が幼くして死去したことを嘆き、寛永2年(1625年)に政盛が創建した長松山万年寺を「桂嶽寺」と改名した。歴代藩主の内で正誠のみが桂嶽寺に葬られている。正武の墓所も同寺にある。
脚注^ 『最上郡史料叢書』「戸沢年譜」(葛麓社、1925年)16頁
^ 『新庄古老覚書』(1918年)121頁
^ 元禄4年(1691年)の鳥越八幡神社など。鳥越八幡神社の本殿と拝殿は国指定重要文化財。
^ 養子の正庸は親族ではあるが藩家臣筋でもあるため、藩内の安定を図ったとも考えられる。正庸の後継にも、自身の娘に婿養子を迎えて相続させるように指示していた。この婿養子の戸沢正成はしかし、正庸よりも先に死去した。
表
話
編
歴
戸沢氏新庄藩2代藩主 (1650年 - 1710年)
戸沢政盛1622-1648
戸沢正誠1650-1710
戸沢正庸1710-1737
戸沢正勝1737-1745
戸沢正ェ1745-1765
戸沢正産1765-1780
戸沢正良1780-1786
戸沢正親1786-1796
戸沢正胤1796-1840
戸沢正令1840-1843
戸沢正実1843-1871
廃藩置県
更新日時:2021年5月4日(火)13:50
取得日時:2021/12/10 16:48