戸次氏
杏葉紋
本姓1.大神氏流臼杵氏
2.秀郷流(藤原氏)大友氏
家祖戸次重秀
戸次氏(べっきうじ、べっきし)は、日本の氏族。大神氏流戸次氏からは佐伯氏などが出た。べつに藤原姓大友氏流戸次氏がある。
概要を領して戸次氏と名乗った。後に男系が途絶えたため、大友氏より第2代当主親秀の二男利根重秀を養子に迎えたという説と、家が絶えたので利根重秀が戸次荘を委ねられたという説がある。大友氏の庶子家の筆頭として栄えた。
鎌倉時代は大友氏の別流として戸次でなく大友名字でも記され、豊後の最有力御家人の一人として大友の宗家と並び北条氏から頼りにされた。
頼時は南北朝時代から室町時代初期に活躍し田原氏ら数家とともに室町幕府奉公衆(小番衆)に加えられたものの、大友の名字を称することは禁じられ、直世の代に直接幕府に仕えるのも禁じられたため大友宗家の家人となった。その後、名字の地である戸次庄の大部分を豊後山間部の大野庄内に宗家の大友氏により替えられ勢力が著しく衰退した。
庶子家の松岡氏の所領の大部分は宗家の大友氏に吸収され、竹中氏・清田氏・大神氏は大友氏に直接仕えるようになった。
19代目当主で戦国時代の戸次親家の代までには、豊後国鎧ケ岳城主となっていたが、20代目の戸次鑑連(のちの道雪)が大友義鑑・大友義鎮の下で宗家の名代として各地を転戦し活躍する。天文22年(1554年)に鑑連が隠居すると、戸次氏家督は戸次鎮連が相続した。鑑連は元亀2年(1571年)に立花氏の名跡を相続する。21代目の鎮連は天正14年(1586年)に大友家加判衆となる。
以降も少なくとも戸次統常の後嗣である戸次延常(亀松)が早死するまで本家は大友氏家臣として続いており、十時與左衛門系図[1]では、天正16年(1588年)1月15日に亀松名義で十時惟益に対して緒方荘軸丸屋敷[2]5貫の朱印状を与えている記述が見える。一方、天正13年(1588年)に立花道雪(元の戸次鑑連)が死去すると、立花氏家督は立花宗茂が相続し、後に柳河藩主となった。このため、大友氏の改易後に戸次氏一門の多くが立花氏に引き取られることになる。
江戸時代には多くの分流・庶流が柳河藩士として続いたほか、柳河藩主立花貞俶の5男である通孝は戸次氏を称し、通孝の子である立花通栄も当初は戸次氏を称した。また戸次親宗(治部大輔、藤北戸次氏)の子孫が彦根藩士となっている。
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系譜
太字は当主[3]、実線は実子、点線は養子。
大神惟基
臼杵惟盛
惟衡
戸次惟家1
惟隆2[豊後佐伯氏]
佐伯惟康[賀来氏]
賀来惟秀
惟継3
惟房4
惟澄5
重秀6[4]
時親7[5]松岡重頼利根頼親竹中頼直
清田直時大神朝直貞直8[6]藤北親教津守貞能
高貞[7]頼時9
直光10[8]片賀瀬直時
直世11[9]利光[10]女(大友親世室[11])
高載12重世親載14氏詮
直繁13直国親貞17直頼15[12]
能泰16[13][片賀瀬戸次氏]
親続親宣18[藤北戸次氏]
親延
親久親家19親宗
親俊親善(紹花)鑑連(立花道雪)20鑑方鎮栄
鎮就鑑員鎮秀ァ千代立花宗茂鎮連21鎮連統栄
鎮智統貞 (紹珊)[柳河藩士]
親良統常22親栄
統雪親実延常
能俊親貞
関連項目
佐伯氏 (豊後国)
臼杵氏
柳川藩
戸次重幸 - 俳優。母方の家系が戸次氏。芸名は母親の旧姓「戸次(べっき)」に由来するが、「とつぎ」と読ませる[14][15]。
脚注、現在の豊後大野市緒方町軸丸
^ 『系図纂要』の戸次氏系図に基づく。
^ 大友親秀の子。北条重時より一字拝領か(『系図纂要』に「以赤橋重時縁坐服近北条氏」と記載がある)。
^ 母は北条重時の娘。得宗/鎌倉幕府執権の北条時宗を烏帽子親とし、鎌倉において元服、その偏諱(「時」の字)を賜う。
^ 得宗/鎌倉幕府執権の北条貞時を烏帽子親として元服、その偏諱(「貞」の字)を賜う。
^ 得宗/鎌倉幕府執権の北条高時を烏帽子親として元服、その偏諱(「高」の字)を賜う。