戸張孤雁
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戸張孤雁

本名志村亀吉
誕生日1882年2月19日
出生地東京府日本橋区本小田原町[1]
死没年 (1927-12-09) 1927年12月9日(45歳没)
死没地東京市
墓地台東区谷中 大泉寺
国籍 日本
運動・動向日本水彩画会、孤雁新東錦絵会、日本創作版画協会[1]
芸術分野彫刻、洋風挿絵版画
教育ナショナル・アカデミーアート・ステューデンツ・リーグ[1]
活動期間1906年 - 1927年
影響を受けた
芸術家荻原碌山[2]
影響を与えた
芸術家小泉癸巳男[3]、喜多武四朗、山本豊市
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戸張 孤雁(とばり こがん[2] / とはり こがん[4][5]明治15年(1882年2月19日 - 昭和2年(1927年12月19日)は、日本の彫刻家版画家、挿画家。本名は亀吉。
略歴

志村久蔵の長男に生まれ、後に母方の姓、戸張を継いだ。青年期には苦学して渡米、荻原守衛の跡をついだ彫刻家であり、創作版画の草分けの一人であったが、1910年代に「孤雁新東錦絵会」を創設、自作の版画の頒布会を開催し、浮世絵の技法による新版画も残している。洋風挿絵の先駆者としても知られる。渡米の際、荻原守衛と知り合ったことを機に彫刻を始めた。帰国後、彫塑を学びつつ、自刻の版画を制作、色調による量感の表現や輪郭線を使わず、独自の流動感を示した孤雁の没骨調の版画は、最大の特色といえる。代表作として、「千住大橋の雨」、「化粧」、「女」、「淵」などが挙げられる。大正11年(1922年)刊行の『創作版画と版画の作り方』は最初の単行技法書であった。

晩年は肺を病み、日暮里の自宅で小鳥を飼いながら静養していた。独身であったが、藤井浩祐らの友人に看取られながら1927年(昭和2年)10月9日に死去[6]。墓所は台東区谷中の大泉寺。
年譜

1882年 - 東京日本橋魚河岸に生まれる

1895年 - 常盤小学校高等科3学年を修了

1898年 - 日本銀行に採用される

1899年 - 片山潜より英語を学ぶ

1900年 - 日本銀行内書記補に昇進する

1901年 - 渡米。メカニック・インスチチュート、ナショナル・アカデミーで挿絵、洋画(水彩画)を学ぶ

1902年 - 荻原守衛と知り合う

1903年 - アカデミーをやめアート・スチューデンツ・リーグへ通う

1906年 - 病にて帰国

1907年 - 東京日暮里に住む。徳富蘆花の『自然と人生』『不如帰』などの挿絵を描く

1908年 - 『孤雁挿絵集壱巻』を刊行する

1909年 - 中原悌二郎中村彝を知る。このころ朝倉文夫のところで塑造をおぼえる

1910年 - 太平洋画研究所彫塑部に入る。第四回文展に彫刻を初出品する

1911年 - 保田龍門を知る。荻原守衛遺稿『彫刻真髄』を編集

1912年 - 中原悌二郎と交換モデルをはじめる

1914年 - 武井直也、孤雁に師事する

1916年 - 日本美術院彫刻部研究会員となり研究をはじめる。院友に推挙される

1917年 - 院展に出品し同人に推挙される。喜多武四朗、山本豊市、孤雁に師事する


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