戸定邸
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戸定邸

戸定邸と庭園
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情報
用途資料館
旧用途

旧水戸藩主別邸[1][2]のち松戸徳川家本邸
建築主徳川昭武[3]
事業主体松戸市
管理運営松戸市
構造形式木造、桟瓦葺・銅板葺
階数1階
竣工1884年明治17年)
改築なし
所在地271-0092
千葉県松戸市松戸642-1
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度46分39.6秒 東経139度53分56.3秒 / 北緯35.777667度 東経139.898972度 / 35.777667; 139.898972 (戸定邸)座標: 北緯35度46分39.6秒 東経139度53分56.3秒 / 北緯35.777667度 東経139.898972度 / 35.777667; 139.898972 (戸定邸)
文化財国の重要文化財、国の名勝(庭園)
指定・登録等日(重文)2006年平成18年)7月5日
備考庭園復元:ヘッズ
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戸定邸(とじょうてい)は、千葉県東葛飾郡松戸町松戸(現在の松戸市松戸)に水戸藩最後(11代)の藩主であった徳川昭武が造った別邸[4]

国の重要文化財の一つであり、指定名称は旧徳川家住宅松戸戸定邸。庭園は旧徳川昭武庭園(戸定邸庭園)として国の名勝に指定されている。また関東の富士見百景に選定されている。
概要

松戸宿江戸時代には江戸と水戸を結ぶ水戸街道宿場町であった。戸定邸付近に位置する松戸神社には水戸藩2代藩主徳川光圀ゆかりの銀杏の樹があるなど、古くから水戸藩とつながりの深い土地であった。戸定邸は1884年明治17年)江戸川をのぞむ下総台地上に完成し、徳川昭武の生活の場として使われた別邸となっている。戸定邸の「戸定」とは「外城」に由来し、戸定邸のある高台・戸定台は、一帯に築かれた松戸城(松浪城)の外郭に位置したという。

明治30年代に実兄である元将軍徳川慶喜が何度も訪れ[5]、徳川昭武とともに趣味の写真撮影や狩猟、陶芸などを楽しんだ。また、多くの皇族が長期に滞在するなど、由緒のある屋敷として知られた。1892年明治25年)、徳川昭武の子の徳川武定が特旨によって子爵を授けられると、以後は松戸徳川家の本邸となった[6]
建築構造

木造平屋一部2階建、延床面積725平方メートル、9棟の建物に23の部屋があり[7]、うち8棟が重要文化財である。台所棟の一部と内蔵が二階建てであるほかは、全て一階建てで、屋根は桟瓦葺きである。また、下屋・渡廊下、附属の便所などは銅板葺きである。南にある表座敷棟を起点として、各棟が連続もしくは渡り廊下で結ばれている。表座敷棟は、床・棚付で十畳半の客間や八畳の書斎などからなり、室境には透かし彫りの板欄間や竹細工の欄間がある。湯殿は浴室と脱衣場をわけ、浴室天井は杉板網代組(網代天井)の意匠としている[8]

表向きの座敷棟をはじめ、各座敷棟、玄関棟から奥向きの施設まで全体がほぼ完存している大規模住宅および明治前期における上流階級住宅の指標となるものとして歴史的価値が高い[9]
旧徳川昭武庭園

旧徳川昭武庭園(きゅうとくがわあきたけていえん)は、戸定邸に造園された庭園。別称は戸定邸庭園。芝生が植えられた現存する洋風庭園としては日本最古とされる[10][11]

徳川昭武がフランス留学など約5年間の欧米滞在やパリで開催されたパリ万国博覧会に出席した際などで見聞きした知識を取り入れて1884年明治17年)から本格的な造園が行われ、6年後の1890年(明治23年)に完成した[10]。戸定邸に接する書院造庭園と、その南に広がる東屋庭園の2つの区画に分かれている[12]

庭園様式は、大きな芝生を中心とした平地部分となだらかな築山を配した部分からなり、芝生地の中の象徴木としてイヌマキの植栽は特異的な景観を形づくっている。また、庭園は、スダジイクヌギコナラなどから構成される林によって囲まれている。日本庭園の伝統的技法となっている借景をとり入れ、高台の優れた景勝地を選び、田園風景を十分眺望できるような設計がされている[13]

徳川昭武が撮影した写真を基に、盛り土を削り、飛び石や樹木などを往時のように復原する工事が2018年平成30年)5月に完了した[14]
沿革

1882年明治15年)3月 - 普請を開始。

1883年(明治16年)5月30日 - 徳川昭武の隠居願を宮内省が承認。

1883年(明治16年)6月11日 - 昭武、水戸徳川家の家督を養嗣子の徳川篤敬に譲る。

1884年(明治17年) 4月7日 - 座敷開き(戸定邸完成)。

1884年(明治17年) 6月22日 - 昭武、生母・万里小路睦子(秋庭)と移住。

1885年(明治18年) 8月16日 - 昭武次女政子、戸定邸にて誕生(生母:昭武側室斎藤八重)。

1887年(明治20年) 1月9日 - 昭武長男武麿、戸定邸にて誕生(生母:斎藤八重)。

1888年(明治21年)10月12日 - 昭武次男徳川武定、戸定邸にて誕生(生母:斎藤八重)。

1889年(明治22年)4月30日 - 徳川慶喜が初来訪(- 5月9日)。

1889年(明治22年)5月1日徳川斉昭正室・慶喜生母の徳川吉子が初来訪。

1890年(明治23年) - 戸定邸庭園完成。

1892年(明治24年)5月3日 - 武定が華族に列し子爵を叙爵。戸定邸が新設の松戸徳川家本邸に。

1896年(明治28年)12月 - 慶喜、戸定邸で製陶。

1898年(明治31年)5月7日 - 有栖川宮威仁親王、慶喜同伴でお成り。

1898年(明治31年)7月17日 - 昭武、水戸徳川家13代当主となった侯爵徳川圀順の後見に。

1900年(明治33年) - 昭武長男武麿、夭折。

1902年(明治35年)4月22日 - 皇太子嘉仁親王、行啓。

1908年(明治41年)12月2日 - 有栖川宮威仁親王、仏ダラック製自動車を運転し昭武同伴でお成り。

1909年(明治42年)7月18日 - 松戸町の薬剤師白井和吉、戸定邸にてヒヲヒ印画紙鍍金現像術を披露。

1910年(明治43年)7月3日 - 昭武、東京新小梅町本邸にて死去。


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