戴季陶
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中華民国政治家戴 季陶Dai Jitao

生年月日1891年1月6日
光緒16年11月26日)
出生地 四川省成都府漢州
(現:徳陽市広漢市
没年月日1949年民国38年)2月12日
(58歳没)
死没地 中華民国 広州市
所属政党 中国国民党
中華民国
初代 考試院長
在任期間1928年10月25日 - 1948年6月30日
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戴季陶
各種表記
繁体字:戴 季陶
簡体字:戴 季陶
?音:Dai Jitao
ラテン字:Tai Chi-t'ao、Tai Tschi-tao
和名表記:たいきとう
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戴 季陶(たい きとう)は、中華民国政治家。名は傳賢(伝賢、??)、は季陶、選堂(?堂)など、号は天仇、孝園(孝?)、法名は不空、不動(不?)、筆名は散紅(散?)、泣民、思秋など。

孫文の側近で、国民政府の初代考試院長を務めた。?介石の次男とされた?緯国の実父であり、民国期の知日家、中国国民党の理論家、中華民国国旗歌の作詞者としても知られる。
人物

庚寅年(清光緒16年)11月26日(1891年1月6日)、四川省成都府漢州(民国期は広漢県)で生まれた。原籍は浙江省湖州府(民国期は呉興県)。1949年2月12日、広東省広州市で没した。墓地は現在、四川省成都市の昭覚寺(昭覺寺、昭?寺)にある。

戴季陶はその生涯ほぼ全時期を通じて、日本政府の朝鮮政策と中国政策を批判し、中国における共和政治建設を追求し、また、西方に対する東方(中国を代表とする)の復興を追求し続けた。彼は、共和政治建設と東方の復興の条件として、国民の意志や理念といった、ある国民をその国民たらしめるものとしての思想(戴季陶は「国民精神」と称した)を重視し、その統一を図らなければならないと主張した。そして彼は、「国民精神」の統一のために、東方古来の利他の精神を復興させつつ、西方の人道や平等の思想を受容すべきであると訴えた。

配偶者は鈕浩(鈕有恒)(1911年結婚、1942年病没)、鈕浩を亡くした後は趙文淑(1944年結婚)である。

なお、?緯国によると、自らの実母は重松金子、実父は戴季陶であるという(汪士淳『千山独行』)。
生涯
経歴

戴季陶は1891年1月6日、四川省成都府漢州に生まれた。12歳の冬に州試、府試に合格したものの、院試で落第し、この時点で官職を求めることを断念した(後述するが、彼は留学から帰国した後一時期官職に就く)。翌年から、成都の東游予備学校、客籍学堂高等科、華英学堂に就学し、さらに、日本人教習服部操(東文学堂)や小西三七(客籍学堂)から日本語の訓練を受けた。15歳もしくは16歳の時、すなわち1904年から1906年の間に、漢州から日本に渡った。その後1907年まで、戴季陶の行動は定かではない。1907年(丁未年)、東京の(専門学校令による)日本大学専門部法律科(法科)に入学した。1908年(戊申年)の秋、日本大学の留学生同学会会長に選出され、翌年退学した。以上から、戴季陶の日本留学時期は1904年?1906年の間から1909年まで、期間は4年ないし6年であったと言える。日本大学在学中は戴良弼と名のり、東京麹町の松浜館に下宿した。

1909年、日本大学専門部法律科を中途退学し、上海に帰国した。上海では数ヶ月間張俊生から生活の援助を受け、同年、蘇州の官立「江蘇自治研究所」(上海蘇属地方自治籌?処)の教職に就き、清朝の官吏として生計を立てた。しかし約「一年」後、周りの研究所員の讒言により教職を解かれたという。戴季陶は蘇州から上海に行き、1910年8月、中外日報記者となり、翌9月、俸給のよい天鐸報記者に転じ、ほどなく編集主任に抜擢された。また天鐸報に勤めた時期に『民立報』にも泣民の筆名で寄稿した。この時期の戴季陶の活動ぶりは、彼が天鐸報記者時期に用いた筆名「天仇」を取って、「天仇時代」と賞されるほど際立ったものであった。当時の戴季陶の著作を見る限りにおいては、彼は新聞記者の職に就いた後、研究所で行った講義の提綱を新聞記事に転用して国民精神形成の重要性を論ずる一方、詩や小説、文学評論を執筆したり、南社や劇団「新舞台」の文芸活動に参加したりした。

戴季陶は1911年4月頃、両江総督張人駿、上海道台劉襄?から上海の『天鐸報』紙上で清朝政府を攻撃した罪状で指名手配され、長崎に亡命した。長崎で2週間ばかり過ごし、上海を経て、浙江省湖州に移った。湖州にて、雷鉄崖(雷昭性)からペナンに来るようにとの電報を受け取り、1911年半から10月頃まで、英領シンガポール、そしてペナンに移った。雷鉄崖は戴季陶と同じく南社の社員であり、おそらく社員の情報網を通じて戴季陶が両江総督、上海道台から指名手配されたことを知り、戴季陶に興味を持ち自分の許に招いたのであろう。こうして戴季陶はペナンで光華日報記者となり、さらに『光華日報』の重役が主盟人や紹介人となり中国同盟会に入会した。1911年10月には、武昌蜂起の報を聞き、ペナンを離れ武漢に向かった。帰国後の1912年2月、社会改良会を発起し、また、進徳会に入り甲部特別会員となった。翌3月には中華民国自由党機関紙『民権報』の編集職に就いた。

戴季陶は1912年半から全国鉄路籌劃督?・中国鉄路総公司総理孫文の機要秘書に就き、1913年2月、3月に孫文訪日に随行し日本語通訳を務め、孫文とともに日本の政軍財界の要人と接触する中で、黄白人種闘争の危険性、および中日提携による中国革命の成就を主張し始めた。1912年8月、中国同盟会の後身である国民党が議会政党として結成された際に、戴季陶は民主立憲によって袁世凱政権の専制を穏和に改革することを希望したが、次第に孫文支持の論陣を張り、頻繁に袁世凱政権を批判する記事を発表するようになった。戴季陶は1912年末から1913年初にかけて、国民の愛国心の発揚を訴え、国民共通の意志に基づいた臨時約法(1912年3月制定)を支持し、袁世凱政権が臨時約法を遵守しないことを批判した。

戴季陶は袁世凱政権に追われて、1913年9月末に東京に亡命した。戴季陶は、大連での武装蜂起準備、高知での選挙応援(1915年3月)、神戸訪問(1915年5月)以外は、1916年4月末に離京、帰国するまで、ほぼ毎日孫文と行動を共にした。中華革命党の結成(1914年7月8日結成大会が開催された)をめぐって孫文は黄興と争い、黄興らは中華革命党は孫文の独裁が強く非民主的性格であると批判して入党を拒否した。こうして辛亥以降の革命を担ってきたグループは分裂したが、戴季陶は1913年10月2日中華革命党に入り(党員「誓約書」第6号)、同年9月から12月にかけて孫文が主宰した革命方針を検討する会議(17回開催された)に11回出席して書記を務め、翌1914年5月から中華革命党の機関誌『民国』の主筆を務め、孫文支持を表明していった。戴季陶はそれ以来1916年4月末に離京・帰国するまで、再度、辛亥革命から第二革命までの失敗の原因を究明し、その改善を図る理論構築に努めた。

戴季陶は、1914年7月末に勃発した第一次世界大戦を中国革命の成就(袁世凱政権打倒および臨時約法復活)の絶好の契機と捉え、日本の中国政策の転換を期待した。戴季陶は1915年3月、孫文の代理として日本の官憲に対し、中華革命党が中国人留学生による「対華二十一か条」(1915年1月に日本政府が提出、同年5月に中国政府が受諾)に関する中日交渉反対運動を煽ったという指摘を否定した。そして1917年9月、孫文の命令を受け、張継とともに原敬を訪ね、孫文ら南方派に対して好意的な政策を取ってほしいと要望した(戴季陶と張継は広州の非常国会に対し、原敬は南方派を支持していると報告している)。戴季陶は原敬を訪ね帰国する途中で大阪を訪問し、一般市民に対して中日両国が提携して中国革命を成就させることに理解を求めた。

戴季陶は五四運動時期に中華革命党・中国国民党の機関誌『建設』『星期評論』などで日本語の社会主義研究を翻訳・紹介し、陳独秀、施存統、陳望道、李漢俊、兪秀松、張国Zなど共産主義グループとも交流した。1920年6月、戴季陶は上海の共産主義グループによる「社会共産党」の設立の第一回会合に関与したとされる。しかし彼は、その共産主義グループの二度目の会合が開かれる前(6月17日前後)に、孫文の反対もあり、精神衰弱の療養のために上海から浙江省呉興県に発ち、共産主義グループの活動から遠ざかった。

戴季陶は1920年末から1922年初にかけて、上海証券物品交易所での仲買事業と浙江省呉興県での読書生活を併せて行ったが、政治活動と執筆活動を行うことはなかった。1922年9月になって彼は、孫文から四川省の各将領に戦争を止め実業発展を図るように説得するという任務を負わされ、上海から長江を遡り成都に向かった。


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