「戦車バイアスロン」とは異なります。
戦車競走の再現(2004年)
戦車競走(せんしゃきょうそう、英語:chariot racing)は、古代ギリシアおよびローマ帝国において人気のあったスポーツの一つである。御者および馬にとって重傷を負ったり死に至ったりすることさえ珍しくない危険な競技であり、現代においてモータースポーツが人々の大きな関心を集めることに類似している。
戦車競走の組織的側面は、ある部分において今日のプロスポーツにも似ている。ローマ時代の戦車競走では、財政支援を行なうグループごとにそれぞれチームがあり、ことに優秀な御者をめぐってはその雇用についての争いもあった。こうしたチームは観客の間に熱烈な支持を集め、異なるチームのファン同士の間で騒動が起こる要因ともなった。
戦車競走が単なるレースにとどまらない、社会全体に影響を与える存在となるにつれ、このようなファン同士のもめごとが政治問題化するようにもなった(例えばニカの乱)。ローマ帝国やのちの東ローマ帝国の皇帝たちがこれらのチームを統制し、彼らを監視する役職をおいたのもそうしたことが理由である。
戦車競走は西欧では西ローマ帝国の滅亡にともなってその重要性を失った一方、東ローマ帝国で存続した。今日の繋駕速歩競走の元となっている。また、ドイツのボードゲームであるアベ・カエサルは、戦車競走を基にして生み出された。
初期の戦車競走古代ギリシア時代の戦車と御者(イスタンブール考古博物館、紀元前6世紀)
どのようにして戦車競走が始まったかについては正確にはわかっていないが、戦車そのものの発生と同じ時代までさかのぼるとされている。ミケーネ世界でこの競技が存在していたことは、それを描いた陶器によって知られる。 他方、文字による記録においてはホメロスの『イリアス』第23歌「パトロクロスの葬送競技」で行なわれた戦車競走に関する記述が最初である[1]。親友パトロクロスの死を悼んだアキレウスが主催したこのレースの参加者はディオメデス、エウメロス、アンティロコス、メネラオス、メリオネスであった。木の切り株を折り返して一往復したこの二頭立ての戦車競走で勝者となったディオメデスは、褒美として女奴隷を1人と大釜を1つを、2着となったアンティロコスには身ごもった牝馬を与えられた。[2]死者を葬る際にこのような競技会を催すことが、特に珍しいことでなかったことは、アンティロコスの老父ネストルが、自分が若き日に出場した同様の競技会について回想し、言及していることからもうかがわれる。 戦車競走は古代オリンピックの起源となったとも言われている。伝説によれば、ピサのオイノマオス王は娘のヒッポダメイアの求婚者たちにレースを挑み、敗れた者たちを殺し、その死体をさらしものにした。そこで求婚者の一人であるペロプスは一計を案じ、王の御者のミュルティロス
パトロクロスの葬送競技
ペロプスの神話オリンピアのゼウス神殿装飾(オリンピア考古博物館)
オリンピアにはペロプスの神話にまつわる記念物がいくつも作られていた。ゼウス神殿の東側破風には、大神ゼウスを中心にペロプスやオイノマオス、ヒッポダメイアや馬、御者たちの像が飾られていた。さらに、ゼウス神殿とヘラ神殿の間にはペロピオンと呼ばれる聖域があり、ここにはペロプスが葬られたとされる塚があった。『ギリシア案内記』の著者パウサニアスはこの場所でペロプスの肩甲骨が見つかったと書き残している。大会ではペロピオンにおいて黒いヒツジを生贄に捧げ、ペロプスを弔う儀式もあったとされる[3]。折り返しを示すために立てられた標柱の一つには、ペロプスに勝利の冠を捧げるヒッポダメイアの青銅像も飾られていた[4]。
ペロプスはヒッポダメイアに恋慕していたミュルティロスとの約束を反故にし、彼を騙して崖から海へと突き落とした。利用されたことを知ったミュルティロスは絶命する前にペロプスを呪い、以降、ペロプスの一族は「呪われた家系」と呼ばれることになる[5]。
オリンピアの聖域内にあったオイノマオス王の宮殿の名残とされた柱は、崇拝の対象となっていた。また、折り返しの標柱の一方のそばには「馬脅し」(タラクシッポス
)と呼ばれる場所があり、祭壇がおかれていた。その場所に来ると突然馬たちが暴れ出すことからその名がついたものであるが、現在では太陽が目に入る場所だったからと説明されている[6]。当時のオリンピアではこれをオイノマオス王やミュルティロスの亡霊の仕業と考えた人々もいた。このような馬脅しはネメアやイストミアの祭典競技でも見られ、それぞれ異なる亡霊が馬たちに干渉しているものとされた。古代オリンピックをはじめとする汎ギリシア的規模で開催された競技大祭[7]では、4頭立て(テトリッポス)および2頭立て(シノリス)の戦車競走が行なわれた。両者の違いは馬の数だけである。戦車競走が最初に古代オリンピックの競技に加わったのは紀元前680年の25回大会とされている(が、実際にはオリンピックのはじまりのきっかけとなった競技である)。
レースはまず競技場(競馬場、ヒッポドローム)への行列から始められ、伝令はその間、御者と戦車の持ち主(オーナー)の名前を読み上げた。オリンピアの競技場は長さ約600ヤード、幅は約300ヤードあり、同時に60台までの戦車が競技することができた(もっとも実際の競技ではそれよりもずっと少ない数で行なわれた)。競技場は丘の真下、幅の広い川のたもとにあり、おそらく1万人の観衆が収容可能だった。
テトリッポスは両端に急な折り返し点の標柱がある競技場を12周するもので、レースを開始する際に下ろされるスタートゲート(ヒュスプレギス、単数形はヒュスプレクス)をはじめ、さまざまな機械装置が用いられた。パウサニアスによれば、それらの装置は建築家クレオイタスによって発明されたもので、外周にある戦車が内周の戦車よりも先に出走できるように位置をずらした構造となっていた。
レースは、外側の戦車が内側の戦車よりも先にスタートし、おおよそすべての戦車が一列に並ぶ最終ゲートが開いてはじめて実際の開始となった。レースの開始は「鷲」と「イルカ」と呼ばれる装置が高く掲げられることで示され、これらの装置は競技が進むと残りの周回数を示すために降ろされた。これらはおそらくそれぞれの生物をかたどった青銅の彫刻で、スタートラインの標柱に設置されていた。
裸で行なっていた他のオリンピック競技とは異なり、戦車競走の御者たちは衣服をまとっていた。これはおそらく馬や戦車が巻き上げる粉塵や、流血をともなう事故から身を守るためという安全上の理由があったと考えられている。御者たちはキスティスと呼ばれる衣を身に着けていた。これは足首までの長さがあり、ウエストの高い位置に簡素なベルトをするものであった。背中の上部で2本の革紐を交差させることで、レースの間、キスティスが風をはらんでふくらむのを防いでいた。
現代の競馬の騎手と同様に、戦車競走の御者たちには体重の軽い者が選ばれた。しかし同時に背の高さも必要とされたため、しばしば十代の若者が御者となった。
競技に用いられた戦車は、戦闘に用いられる戦車を改造したものである。戦車は基本的に2つの車輪をもつ屋根のない木製のカートで、この時代には既に戦争では用いられなくなっていた。御者は定まった位置にその両足をおいたが、カートにはスプリングがなく直接車軸の上に載っていたため、戦車はガタガタと揺れ、カートに乗る者はその激しい振動に耐えねばならなかった。
少なくとも観客にとって戦車競走の最もエキサイティングな部分は、競技場の両端にあった折り返し点である。パトロクロスの葬送競技において、ネストルは我が子に対し、勝負の鍵は折り返し点においていかに馬を操るかであると説いて、体を左に軽く傾け、外側を走る馬の手綱を緩めながら、内側の馬には折り返しの標柱ぎりぎりを走らせるよう指示している[8]。これらの折り返しは非常に危険で、ソポクレスの悲劇『エレクトラ』で描写されているように、馬が暴れて玉突き衝突が起きたり、手綱さばきを誤って標柱にぶつかったりする事故が発生、しばしば命にかかわるほどであった[9]。折り返し点より前で競走相手に転覆させられていない場合でも、このような事故に巻き込まれる可能性はあった。故意に競走相手に向かって衝突を仕掛けることはルール違反であったが、起きてしまってからはどうすることもできなかった(パトロクロスの葬送競技において、アンティロコスはまさにこのやり方でメネラオスの戦車を壊した)し、偶発的にもこのような事故は起こりえた。
戦車競走はスタディオン走ほど高い評価を受けるスポーツではなかったが、例えば非常に早い時期に五輪競技から外れた競馬のようなそれ以外の馬術競技と比べると、より重要なものとして位置づけられていた。
ミケーネ時代には御者とオーナーは同じ人物であり、それゆえに優勝した御者自身が賞を受けた。しかしながら、汎ギリシア競技会の時代までには、大抵のオーナーは奴隷に実際の戦車の制御をさせるようになり、御者ではなくオーナーが優勝賞品を受け取るようになっていた。
キュレネの王アルケシラオスは彼の奴隷だった御者がそのレースで唯一ゴールしたことにより、紀元前462年のピューティア大祭の戦車競走に優勝した。