戦象
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バーブルの時代のムガル帝国軍。訓練を兼ねた狩りの様子。戦象に乗った兵が獲物を追っている。

戦象(せんぞう)とは軍事用に使われたのことである。主にインド東南アジアや古代地中海世界で用いられ、突撃で敵を踏み潰すか、あるいは敵戦列を破砕することを主目的とした。象の社会は血縁のある雌の群れを基礎とした母系社会であり、それが原因で雌象は他の雌象へ向かって行く傾向があったため、軍用には雄の象が用いられた。
歴史

象を家畜化する試みは、4000年前のインダス川流域で始められた。しかし、低い繁殖力と成長の遅さ、飼育下の群での繁殖の困難さ、妊娠期間の長さのために、おそらく大半は、そして現代に至るまでケッダなどと呼ばれる追い込み罠で野生のインドゾウを捕まえて飼いならしていた。初期の象の利用は、強い力を生かした農耕の補助にあった。軍用の起源は紀元前1100年ごろで、その活躍をたたえるサンスクリットの賛歌が複数残っている。

その後、戦象の運用はインド亜大陸に隣接したイラン高原を通じて西方へ伝播したが、インドゾウとそれを扱うインドの象使い(マハウト)ともども導入された。それらの入手が困難な地中海世界では現地のアフリカゾウを戦象化する試みが進められ、エジプトやカルタゴが育成に成功した。ただしアフリカゾウはインドゾウと性質が異なり、人間が飼いならす事はほぼ不可能である事から、アフリカゾウ属系だが別種のマルミミゾウであるとする説がある。後述のラフィアの戦いも、その事実を裏付けている(インドゾウよりアフリカゾウのほうが概して体躯は大きいが、マルミミゾウは逆に小さい)。しかしマルミミゾウが当時地中海地域まで生息していた証拠は無く、結論は出ていない。
マケドニアの東方遠征

地中海世界が戦象を知ったのはアレクサンドロス3世(大王)率いるマケドニア・ギリシャ連合軍による東征軍が初めて、紀元前331年ガウガメラの戦いに於いてペルシア帝国ダレイオス3世が投入した戦象と対峙している。また、アレクサンドロスがインドに侵入した際、ヒュダスペス河畔の戦いで、ポロス率いるパンジャブ王国パウラヴァ族)側は200頭の戦象を運用した。@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}

ヒュダスペス川の戦い

ディアドコイ戦争

アレクサンドロス死後のディアドコイ戦争では、戦象はより積極的かつ大規模に用いられた。主な戦いとしてパラエタケネの戦いガビエネの戦いガザの戦いイプソスの戦いがある。特に紀元前301年のイプソスの戦いでは、両軍合わせて500頭近くの戦象が運用された。

上述の通り西方ではインドゾウの導入と、現地のアフリカゾウの戦象化、双方が行われた。紀元前217年ラフィアの戦いでは、その両者が戦った。この戦いではアフリカ戦象はインド戦象よりも体格が小さく、数等の問題もあり、アフリカゾウが敗北している。このため、カルタゴやローマといった遠方の国家も、インドゾウを使うインド人を雇おうとした。
ローマ共和国と戦象

ローマ共和国が最初に戦象と戦ったのはピュロスの侵攻時である。このヘラクレアの戦い(紀元前280年)、アスクルムの戦い(紀元前279年)では、ローマ軍は20頭の戦象に大きく動揺して敗北をしているが、ベネウェントゥムの戦い(紀元前275年)で戦象の無力化に成功している。

第二次ポエニ戦争において、カルタゴの将軍ハンニバルは、37頭の戦象を連れてアルプス山脈を越え(ハンニバルのアルプス越え)、イタリア半島に侵入を試みたがその殆どはアルプスを越える時点で失われた。到達できたのは3頭に過ぎないが、ローマ共和国を大いに驚かせた。その後のザマの戦い紀元前202年)で、ハンニバルは80頭の戦象を運用した。戦闘の序盤でハンニバルは戦象を突撃させたが、ローマの将軍大スキピオは、事前にこれを予測し各中隊の間隔を広く取らせていた。戦象はその隙間を通り過ぎてしまい、方向転換のために停止したところを始末された。

アルプス山脈を越えるハンニバルの軍

ザマの戦い』(Cornelis Cort,1567)


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