この項目では、主に陸軍の戦術について説明しています。海軍の戦術については「海戦術」を、空軍の戦術については「航空戦術」を、アイアン・メイデンのアルバムについては「戦術 (アルバム)」をご覧ください。
戦術(せんじゅつ、英: tactics)または戦法は、作戦・戦闘において任務達成のために部隊・物資を効果的に配置・移動して戦闘力を運用する術である[1]。理論的・学問的な側面を強調する場合は戦術学とも言う。戦略の下位の概念であり、基本方針に基づく長期的方略を戦略といい、状況の変化に応じた短期的方略を戦術と呼ぶ。一般に師団より小さい戦闘単位の軍事行動を計画・組織・遂行するための通則である[2]。そこから派生して言葉としては競技や経済・経営、討論・交渉などの競争における戦い方をも意味するようになる。 戦術は作戦戦闘において戦力を運用する術策であり、軍事学の根幹的な学問でもある。その形態から事前に準備調整が行われる計画戦術と、応急的に行われる動きの中の戦術がある[3]。戦術の究極的な目的とは戦闘での勝利であり、戦略による指導の下で戦術は戦果を最大化しようとするために実行される。戦術の実施においては戦術単位である師団、連隊、大隊、戦闘団などが運用される。陸海空軍において戦術はその戦闘の性格的な差異から同じ用語でもその内容が大きく異なる。海戦術では戦闘単位が艦艇であり、航空戦術では航空機であり、戦場となる地形も海戦術では海域であり、航空戦術では空中である。本項目では陸軍の戦術について主に述べる。 戦術は戦闘の発生と共に自然に形成されてきた。その発展の歴史は戦闘教義や軍事技術の歴史と密接な関係を持っている。 西洋における古代戦術にはギリシアとローマの二つの系譜がある。ギリシアにおいては重歩兵をもってファランクスという戦闘教義が開発され、マラトンの戦いでギリシア軍(アテナイ・プラタイア連合軍)に勝利をもたらした。これはマケドニアのピリッポス2世やアレクサンドロス3世(大王)に戦闘教義が受け継がれて改良が重ねられ、ガウガメラの戦いにおいてアレクサンドロス大王はペルシア軍を破った。 ローマにおいて徐々にレギオンという戦闘教義が開発されて柔軟な部隊の運用が可能となったが、カンナエの戦いにおいて、ローマ軍は約2倍の兵力を誇りながらハンニバルによって撃退された。このハンニバルの戦術は第一次世界大戦の戦史研究によって戦術家の模範とされた[4]。 中世においてはヨーロッパでは騎士による一騎討ちの儀式的な戦闘が行われていたが、東ローマ帝国においては外敵の脅威からカタフラクトという従来の歩兵を主力とした部隊から騎兵を主力とした部隊に主力を転換した。しかしながら重装騎兵部隊は機動力が低下し、戦術的な運用を制限することになった[5]。モンゴルではチンギス・カーンの指揮の下で弓・槍・刀剣で武装した大規模な騎兵部隊を機動的かつ機能的に運用する戦術が発揮されるようになり、サマルカンドの戦いでも勝利した。 近世にはスペインで、小銃の発明から銃兵とこれまでの歩兵部隊を組み合わせたテルシオという戦闘教義が開発され、のちに全ヨーロッパに広まった。このテルシオの研究と砲兵の登場によって歩兵・騎兵・砲兵を運用する三兵戦術が生まれる事となる。三十年戦争においてグスタフ・アドルフは戦闘教義だけでなく軍事技術の方面でも多くの功績を残し、戦術においてはブライテンフェルトの戦いで砲兵部隊を用いて世界で初めて間接照準射撃を行った。
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