戦艦大和ノ最期
訳題Requiem for Battleship Yamato
作者吉田満
国 日本
言語日本語
ジャンル戦争文学、戦記小説[1]
発表形態雑誌掲載予定・後発初掲載
初出情報
初出初稿・文語体「戦艦大和ノ最期」 - 『創元』1946年12月・創刊号(GHQの検閲により全文削除処分)
『文學界』1981年9月号(後発掲載)
改定稿・口語体「戦艦大和」 - 『新潮』1947年10月号
改定稿・口語体「小説戦艦大和」 - 『サロン』1949年6月号(挿絵:向井潤吉)
刊本情報
刊行『戦艦大和の最期』創元社 1952年8月(改定稿版・文語体)
『戦艦大和ノ最期』北洋社
『戦艦大和ノ最期』(せんかんやまとノさいご)は、吉田満の代表作。著者自らが体験した天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)での戦艦大和の出撃から沈没までを綴った、太平洋戦争(大東亜戦争)を題材とした戦記文学である。
文語体で綴られた初稿は一日足らずで書かれ、その後1946年(昭和21年)12月の雑誌『創元』創刊号に掲載される予定だったが、GHQの検閲で全文削除された。そのため出版刊行は、部分的に改稿した上で、独立回復後の1952年(昭和27年)8月に創元社でなされた。この戦記文学が、後の太平洋戦争を描写した小説や映画に与えた影響は大きく、特に天一号作戦を取り上げた作品には、本作の内容を参考として記述されている物も多い。
英語版は1985年に、Richard H.Minearの訳(英題:Requiem for Battleship Yamato)が出版された。 太平洋戦争(大東亜戦争)中の1943年(昭和18年)、東京帝国大学法学部(現・東京大学法学部)の学生だった吉田は、学徒出陣により12月から海軍二等水兵として武山海兵団に入団し、翌年1944年(昭和19年)2月に海軍兵科第四期予備学生となった[2]。7月からは予備学生隊として海軍電測学校に入校し(同月に帝大法学部を卒業)、12月に海軍電測学校を卒業した吉田は少尉(予備少尉)に任官され、戦艦大和に副電測士として乗艦を命ぜられ電探室勤務となった[2][3]。 そして、満22歳だった翌年1945年(昭和20年)の4月3日、戦艦大和に沖縄への出動命令が下り、吉田も天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加することになった[3]。その時期、連合艦隊はほとんど壊滅し、護衛の飛行機も一機もなかった[3]。燃料も片道分だけの特攻作戦であった[注釈 1]。敵の米軍は4月1日から沖縄本島への攻撃を開始しており、沖縄の海には米艦船に埋め尽くされていた[3]。 戦艦大和は6日の夜、豊後水道を通過した。運命の日、吉田は哨戒直士官を命ぜられ、艦橋にいた。7日、徳之島西北の沖で戦艦大和は、8回にわたる米軍機約1000機の猛攻撃を受けて、あえなく沈没してしまった。乗務員3332名のうち、生き残った者は276名であった[3]。様々な戦友の壮絶な死を目の当たりにした吉田は辛うじて死を免れたが、それらの過酷な体験は吉田にとって生涯消えることのない複雑な記憶となった[3]。 生還した吉田は、頭部裂傷の治療のため入院していたが、完治しないうちに希望退院して、特攻を志願した[3]。同年7月に高知県高岡郡須崎の回天基地(人間魚雷基地)の勤務を命ぜられた吉田だったが、意に反して特攻ではなく、基地の対艦船用電探設営隊長の任務を与えられ、須崎湾の突端の久通村の部落で陣地の構築を行なっていた[3][2]。 そして終戦となり、しばらく久通村にいた後、吉田は両親が疎開していた西多摩郡吉野村(現・東京都青梅市)に帰還した[3][2]。吉野村には、父と疎開仲間になっていた吉川英治がおり、9月中旬に吉川と対面した際に吉田は自身の戦場体験を語った[4][5]。じっと黙って話を聞いていた吉川は少し涙をためた目で、帰ろうとする吉田を見つめながら、「君はその体験を必ず書き誌さなければならない」、「それはまず自分自身に対する義務であり、また同胞に対する義務でもある」と言った[4][5]。 帰宅した吉田は、すぐに鉛筆をとり大学ノートに書き始めた。文字が.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}迸(ほとばし)るように滑らかに流れ出て、一日足らずで書き終えた[4][5]。第一行目から自然に文体は文語体になった[4][5][6]。 吉田満は1945年(昭和20年)9月中旬に一日足らずで大学ノートに書き上げた鉛筆書きの草稿(初稿)を、少し肉付けしてから別の大学ノートにペン書きで記した。このノートを吉田の友人O氏など複数の人がやはりペン書きで書き写して清書され、それらが親しい友人・知人らに回覧されることになった[5]。 この書き写し(清書)の大学ノートの1冊を読んだ小林秀雄が吉田の勤務先の日銀を訪ねてきて、小林が青山二郎や梅原龍三郎と共に発刊準備をしていた雑誌『創元』1946年12月・第1号(創刊号)にぜひ掲載したいと申し出た[5]。
執筆背景
戦地体験
吉川英治との出会い
刊行経緯
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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