戦略地政学
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地政戦略学(ちせいせんりゃくがく、: Geostrategy)、または戦略地政学(せんりゃくちせいがく)とは、軍事力及び国家安全保障に焦点を当てた地政学であり[1]、地政学を戦略として利用する試みである[2]
概要

地政学の分野の一つであり、主に地理的要因によって導かれる外交政策の一種であり[3]、それらが政治的・軍事的計画に情報を提供することにより、制約し、影響を与えるものである。他の戦略と同様に、地政戦略学は手段と目的を一致させることに関係している[4][5][6][7][8]。この場合、国の資源(それらが限られているか、豊富であるかにかかわらず)と地政学的な目的(局地、地域、または地球規模である可能性がある)を一致させることとなる。地理学が国家国民と密接不可分であるのと同様に、戦略は地理学と絡み合っているか、またはコリン・グレイとジェフリー・スローンが述べるように、「地理学は戦略の母である」[9]

地政戦略学者は、地政学者とは異なり、攻撃的な戦略を提唱し、ナショナリスト的な視点から地政学にアプローチする。すべての政治理論と同様に、戦略家の国民性、自国が有している資源の多寡、自国の目標の範囲、政治的・軍事的・文化的・経済的関与に影響を与える技術的要因など、地政戦略学は、その理論が考案された背景にある文脈に関連している。地政戦略学は、外交政策が地理的要因によってどのように形成されるかを記述する理論的機能、地理的要因に基づいて外交政策を分析及び評価する機能、地理的要因に基づいて国家の将来的な外交政策の内容を推計する機能、外交政策を提案する実践的機能を果たすことができる。

多くの地政戦略学者は地理学者でもあり、政治地理学軍事地理学文化地理学経済地理学戦略地理学など人文地理学の下位分野を専門としている。戦略地理学は地政戦略学と最も密接に関連している。

特に第二次世界大戦後、一部の研究者は、ドイツ起源の国家有機体説英米起源のより広範な地政学との二つの学派に分かれて、地政戦略学を研究している[10][11][12]
定義

以下で説明する地政戦略学のほとんどの定義は、戦略的考察と地政学的な要因との融合を強調している。地政学が表向きは中立的なもので、異なる地域の地理的・政治的特徴、特に地理が政治に与える影響を検証するものであるのに対し、地政戦略学は国家目標を達成するための手段を割り当てたり、軍事的、政治的に重要な資源を確保したりする包括的な計画を含む。
原義

"geo-strategy(戦略-地政学)"という英語表記は、フレデリック・シューマンが1942年に発表した論文 "Let Us Learn Our Geopolitics"の中で初めて使われた。これはドイツの地政者カール・ハウスホーファーが用いた"Wehrgeopolitik"というドイツ語の訳語である。それ以前は、"defense-geopolitics(防衛-地政学)"などの語が用いられていた。ロバート・シュトラウス・フーペ(英語版)は、"war-geopolitics(戦争-地政学)という語を充てた。[13]
現代の定義.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}地政戦略学とは、地表の特に重要な空間に対する権力の行使、国際システム上の政治的存在を作り上げることについて取り扱うものである。それは、自らの安全保障と繁栄を高めること、国際システムをより豊かにすること、形作られるよりも形作ることを目的としている。地政戦略学とは、特定の貿易ルート、戦略的ボトルネック、河川、島、海へのアクセスを確保することである。それには大規模な軍事的プレゼンスが必要であり、通常、海外の軍事基地の開設や大規模シーパワー投射が可能な軍艦の建造と同時に行われる。また、目的を共有する他の大国や、自分が重要と考える地域に位置する小規模な「基軸国家」との同盟関係のネットワークも必要となる。—James Rogers and Luis Simon、Think Again: European Geostrategy「地政学的、戦略的」および「地政戦略学的」という言葉は、次のような意味で使われている。

「地政学的」とは、国家や地域の状況を決定する地理的、政治的要因の組み合わせを反映し、地理が政治に与える影響を強調したものであり、「戦略的」とは、中心となる目標や軍事的に重要な資源を獲得するための施策を包括的かつ計画的に適用することを意味し、「地政戦略学的」とは、戦略的な検討と地政学的な検討を融合させたものである—Zbigniew Brzezinski、Game Plan (emphasis in original)[14]米国にとってユーラシアの地政戦略学とは、短期的には独自のグローバル・パワーを維持し、長期的にはそれを制度化された国際協力へと変容させるという米国の双子の利益に沿って、地政学的な動態を意図的に管理し、地政学的な触媒状態を慎重に処理することである。残忍な古代帝国時代に置き換えていえば、帝国の地政戦略学上の3大命題は、家臣間の結託を妨げて安全保障を依存させ続けること、属国を懐柔・保護し続けること、そして蛮族が合流しないようにすることである。—Zbigniew Brzezinski, The Grand Chessboard[15]「地政戦略学」とは、国家の外交政策の地理的方向性のことである。より正確には、地政戦略学とは、国家がどこに注力し軍事力を投じ外交活動を展開するのかを説明するものである。基本的な前提として、国家の資源は限られており、たとえその気があったとしても、「烏合の衆」の外交政策を行うことはできないということである。その代わりに、世界の特定の地域に政治的・軍事的に焦点を当てなければならない。地政戦略学とは、国家の外交政策の推進力を説明するものであり、動機や意思決定のプロセスを扱うものではない。したがって、国家の戦略は必ずしも地理的・地政学的要因によって動機づけられるものではない。国家は、イデオロギー的な理由、利権団体、あるいは単に指導者の気まぐれによって、ある場所に権力を投影することがある。—Jakub J. Grygiel、Great Powers and Geopolitical Change (emphasis in original)[16]
理論と方法論

科学あるいは科学に基づく政治的実践としての地政戦略学は、事実と経験的分析を用いているため、地政戦略学の理論的定式化は、戦略的アプローチの違いや競合する戦略的アプローチによって事実価値観の関係や結論は異なるものの、通常は経験則に大きく依存している[17]。理論に基づく地政戦略学構想は、その国の対外政策や国際政策の基礎となる[18]。また、地理戦略的概念は、共通の歴史・国同士の関係・文化・プロパガンダなどにより、歴史的に習得されたり、さらには国を跨いで継承されたりするものである[19]

地政戦略学が考慮しなければならない立地には、川谷・内海・外海・世界島などがある。例えば、西欧文明の起源は、エジプトのナイル川メソポタミアチグリス川ユーフラテス川の渓谷にあった。ナイル川・チグリス川・ユーフラテス川は、作物生産のための肥沃な土壌を提供しただけでなく、流域に住む者たちにの創意工夫を強いる洪水をもたらした。この地域の気候は、主に農業を基盤とした生活に適していた。 川はまた、人力と風力が船の動力であった時代に交易路を提供した。川谷は、人々の政治的発展のための統一因子となった[20]
歴史
先駆け

早くもヘロドトスのころから、観察眼の持ち主たちは戦略が当事者の地理的背景に大きく影響されると考えていた。ヘロドトスは『歴史』の中で、古代エジプトアケメネス朝ペルシャスキタイ古代ギリシャの間の文明の衝突を描いているが、これらはすべて形而下の地理的背景に大きく影響されているとヘロドトスは考えていた[21]

ハインリッヒ・ディートリッヒ・フォン・ビューローは、戦略の幾何学的な科学を提案した『新戦争体系の精神』を1799年に著した。彼の理論では、小さな国家を大きな国家が飲み込んでいき、最終的には11の大国家にまとまると予測された。マッキュービン・トーマス・オーウェンズは、この予測とドイツ統一イタリア統一後のヨーロッパ勢力図との近似性を指摘している[22]
黄金期

1890年から1919年の間は、世界は地政戦略学者のパラダイスの様相を呈し、古典的な地政学的理論の定式化につながった。当時の国際システムは、(多くの場合、世界を巻き込んでの)列強の台頭や没落により特徴づけられた。大国が探検したり植民地化したりするための新たなフロンティアはもう残されておらず、世界全体が帝国と植民地化した大国の間で分断されていた。


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