戦時猛獣処分
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昭和18年(1943年)、猛獣処分となった上野動物園の「ジョン」。8月29日、絶食による餓死。

戦時猛獣処分(せんじもうじゅうしょぶん)とは、戦争時において動物園猛獣が逃亡して被害を及ぼすのを未然に防止する目的で、殺処分することを言う。

歴史上では、連合国軍による本土空襲に備えて第二次世界大戦中の日本で行われた一連の事件が知られており[1]、日本ではこの事件を指すのが慣用である。また、第二次世界大戦時のイギリスドイツでも逃亡防止のため殺処分が行われた例がある。

他方、危機に際しても殺処分を行わなかった動物園もあり、空襲に巻き込まれての死亡例(ベルリン空襲時など)も見られる。別に、食料供給目的で食肉加工用に殺処分を実施した例もある(普仏戦争時のカストルとポルックスなど)。
日本における戦時猛獣処分

日本では第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)以降に、日本各地の動物園で戦時猛獣処分が行われた。この措置は軍ではなく、都道府県市町村などの行政機関によって命じられた。飼料不足も重なって、多数の飼育動物が戦争中に死亡した。
経緯

日本では、日中戦争中の1939年(昭和14年)頃から空襲時の猛獣脱走対策が本格的に検討されるようになった。1939年5月に開かれた初の全国動物園長会議(後の日本動物園水族館協会)では、研究課題の一つとして空襲時の猛獣脱走対策が挙げられ、檻の防護や殺処分などが検討された。これは、当時は日本領だった台湾中国空軍による渡洋爆撃が行われたのを踏まえての研究であった[2]。1936年(昭和11年)の上野動物園クロヒョウ脱走事件以降に上野動物園で毎年行われていた猛獣捕獲訓練も、1939年のものは「空襲により檻が破壊されて脱走した」との想定で実施された[3]東山動物園でも、防空演習の一環として殺処分の訓練が行われている。

日米関係が悪化して太平洋戦争が迫った1941年(昭和16年)7月には、陸軍東部軍司令部から上野動物園に対し、非常時における対策要綱を提出するように指示が出た。これに応じ、上野動物園では『動物園非常処置要綱』を作成して提出した。この要綱では、飼育動物を危険度別に4分類し、実際に空襲が始まって火災などが迫った場合には危険度の高いものから殺処分する計画になっていた(詳細後述)。処分方法は薬殺を原則として、投薬量リストをまとめるとともに、緊急時には銃殺するものとしていた。日米開戦後の1942年(昭和17年)4月にドーリットル空襲があると、空襲の脅威は、より現実的なものとして意識されはじめた[4]

逃亡予防を目的とした戦時猛獣処分が実際に始まったのは、1943年(昭和18年)の上野動物園が皮切りである。8月11日にゾウ1頭の殺処分が決まったのを最初に、8月16日には新任の大達茂雄東京都長官から全猛獣の殺処分命令が下った。この命令に従って、上野動物園ではゾウやライオンなど14種27頭が薬殺や餓死により殺処分された[注釈 1]。大達は、都長官着任前には日本軍占領地のシンガポール(昭南島)で軍政を担当していたため、戦況の悪化を熟知しており、疎開などの本土空襲対策に熱心であった[5]。猛獣処分を命じた大達の真意について、上野動物園長だった古賀忠道は、被害予防というよりも国民の危機意識を高めることにあったのではないかと推測しているが[6]、明確な史料が無く真相は不明である[7]。東京では、上野以外にも井の頭自然文化園でも、同様にクマ2頭が殺処分となった[8]

前述の上野動物園の非常措置を受けて、日本全国を巡業していたサーカス団などが飼育していた猛獣の処遇も社会的な問題となった。1948年時点で日本国内のサーカス団にはライオン51頭、ゾウ11頭、クマ8頭、ヒョウ6頭、トラ2頭などが飼育されていたほか、サーカス団に所属しない「猛獣使い」も複数の動物を飼育していた。同年9月、内務省警視庁は大日本興業協会仮設興行部に猛獣の飼養は都市外に限定すること、警戒警報発令後は興行を中止することを求めるとともに、射殺の準備やあらかじめ「懇篤な処置」を施すことも求めた[9]。これらの動物については、1943年10月、警視庁から処分命令が出され、ライオン52頭などが処分対象となった[8]が、他の動物の行方は不明である。

その後、1944年(昭和19年)前半から、日本各地の他の動物園でも本格的に戦時猛獣処分が行われた。1944年3月に宝塚動植物園大阪市立動物園(10種25頭処分)、京都市動物園(13頭処分)が実施したほか、仙台市立動物園福岡市記念動物園(6月6日)も続いた[10]愛知県東山動物園では、1943年10月-11月にライオン2頭(うち1頭は試射用)とクマ1頭だけは軍の要請を受けた市長の指示によって殺処分されたが、残りの多くは立地条件の良さや北王英一園長など当時の園関係者の努力と懇願によって猛獣飼育が続けられた。しかし、警備に協力する猟友会からは激しく非難されていた。その東山動物園でも、1944年12月13日の名古屋空襲に至り、「内務省からも射殺命令が出た」とする猟友会からの強硬な要請を受けて、ついにライオン2頭・ヒョウ2頭・トラ1頭・クマ2頭を銃殺した。数日後にも、残るクマ8頭が処分された[11]

日本での戦時猛獣処分は、直接的に多くが都道府県などの行政機関の命令や、警防団などからの要請を踏まえた動物園自身の判断によって実施された。この点、全ての猛獣処分が軍隊の命令によると説明されることがあり、『かわいそうなぞう』などのノンフィクション作品でも軍命令が原因と描かれていることが多い。軍命令説が広まった背景には、何もかも軍部せいにして自身の責任を逃れようとした戦後の風潮があるとの見方もある[12]。ただし直接的な軍命令による猛獣処分が無かった訳ではなく、京都市動物園では第16師団より猛獣処分命令が発せられている[13]

殺処分せずに、安全な地域の動物園へ避難させることも一部では行われた。例えば、東山動物園では、1943年(昭和18年)12月にライオン2頭を蒙古自治邦政府下の張家口動物園へと寄贈している[10][注釈 2]。しかし、後述する上野動物園の事例のように、検討はされながらも実現しなかったものもある。

このほか、飼料不足による餓死や頭数整理のための殺処分も相次ぎ、空襲により死亡する動物も出た。

終戦時に生き残っていた動物は、ゾウが東山動物園に2頭と京都市動物園に1頭(間もなく餓死)、キリンが上野動物園に3頭と京都市動物園に1頭(間もなく餓死)、チンパンジーが東山動物園に1頭などわずかな数であった[14]。このゾウが唯一生き残っていた東山動物園へは象列車が各地から運行されている。
上野動物園における戦時猛獣処分

東京都では大達茂雄東京都長官が、1943年8月16日上野動物園などに対して猛獣の殺処分を発令した[1]。これに従って上野動物園では、ゾウライオントラクマヒョウ毒蛇などといった14種27頭が殺処分された[注釈 1]


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