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やノートページでの議論にご協力ください。戦後民主主義(せんごみんしゅしゅぎ)は、第二次世界大戦後の日本において普及した民主主義思想・価値観の総称である。 戦後民主主義はしばしば戦前の大正デモクラシーと対比して使われる。この言葉は様々な文脈で用いられているが、「戦後民主主義」を説明する学問上の定説はまだ存在せず、その含意も使い手によって千差万別といってよいほど異なっている。ただし、戦後民主主義が尊重した共通の価値として、日本国憲法に示された国民主権(主権在民)、平和主義、基本的人権の尊重が挙げられるだろう。その点で、戦後民主主義は日本国憲法を背景にしていたと言える。教育基本法も、日本国憲法と並んでこうした戦後民主主義の諸価値を擁護する役割を果たしていると言われる。 大正デモクラシーは天皇主権の大日本帝国憲法を民主主義的に解釈することに基づいていた(提唱者の吉野作造は政府の弾圧を避けるべく「民主主義」ではなく「民本主義」と呼んだ)ので、基本的人権は個人の生得の権利として規定されていなかった。つまり、ヨーロッパやアメリカで当然だった天賦人権説が日本には普及していなかった。また、議院内閣制も憲法上の規定がないため憲政の常道という概念で慣習的に実現していた。そのため、内閣総理大臣の指導性が確立しておらず、内閣を構成する他の国務大臣を任意に罷免できない弱い立場であった。軍の最高指揮権(統帥権)は天皇に属し、内閣にはなかったため、統帥権を楯にした軍部の暴走を抑える法的な力も内閣と議会にはなかった。 戦後民主主義は、国民主権(主権在民、国権の最高機関としての議会)や基本的人権を基本原則に持つことで、大正デモクラシーの弱点を克服したと言える。しかし、イギリスのように議会が力を蓄えて清教徒革命、名誉革命などの革命により王権を制限することによってこれらを確立したのではなく、第二次世界大戦でのポツダム宣言受諾・降伏文書調印後にGHQ影響下でなされた一連の改革により確立された(封建制に対する明治維新同様、上から下された)ところに戦後民主主義の弱点やジレンマがあるとも言われる。特に戦後民主主義の批判者は、現憲法を「押し付け憲法」と批判するのは常である。しかし、この保守派からの批判に対して、論者によっては、軍国主義の一時期の日本が異常だったのであって、戦後は確かにアメリカの力を借りたものの、大正デモクラシー期に芽が出かけて、その後、軍国主義によって芽の摘まれた日本型民主主義が図らずも新憲法で実現されたとの見方もある。実際、戦前の国家主義者であり社会主義者(国家社会主義者)であった北一輝が提起した問題が日本国憲法下で実現している側面などに着目すると、この主張もあながち荒唐無稽なものではないともいえる。 いわゆる進歩的文化人とかなりの部分で重なり、戦後民主主義のオピニオン・リーダーと目される人物には、丸山眞男、川島武宜、大塚久雄、竹内好、鶴見俊輔、加藤周一などの学者や作家、評論家がいる。大江健三郎や大塚英志は戦後民主主義者を自認・自称し、特に大江はその代表のように見なされることもある。イメージ的にいえば、いわゆる岩波文化人、岩波知識人とも親和性がある。 日本が連合国によるポツダム宣言を受託してからGHQによる日本国政府を通した間接統治が始まった。この頃GHQによる民主化指令が数多く発せられ、急速な民主化が日本において進んだ。その中でも国民、マスメディアが注視した事柄に天皇の地位問題があった。日本の戦争責任が天皇に帰属するのかを含め、人々の関心を集めながら事は進んだ。1946年1月1日に昭和天皇は年頭詔書 日本の敗戦直後の憲法学者に共通していた価値観として、憲法改正不要論があった。天皇機関説を唱え、貴族院を辞職した美濃部達吉もその論者であり次のように主張した、「民主主義の政治の実現は現在の憲法下でも十分可能であり、憲法の改正は決して現在の非常事態の元において即時に実行せねばならぬ程の急迫した問題ではないと確信する。」として憲法改正に否定的だった[2]。しかし、GHQは首相である幣原喜重郎に憲法改正を示唆した。これをうけた幣原は憲法問題調査委員会を設置し改憲案を練った。この頃は官民のいかんを問わず改憲案が起草されている。1946年2月1日、憲法問題調査委員会憲法改正の試案が朝日新聞にスクープされた。このスクープが国民の世論を探る観測気球とみたGHQ民政局は同委員会に不満を抱き、マッカーサー三原則[注釈 1]を示した。[3]この三原則に基づいて起草された草案を日本政府に示した。この草案を受け入れられない場合は天皇の存在、保守勢力の今後は保証できないと通告したため、政府はこれを受け入れざるを得なくなり、憲法改正を大日本帝国憲法第73条に定められた改正手続きを踏まえて行なった。この改正の動きについて毎日新聞の行った「戦争放棄条項は必要か」との世論調査にて賛成とする回答が70%、反対とする回答が28%だった。同時期に知識人らもこの戦争放棄条項について述べている。読売新聞社社長の馬場恒吾は現在の日本には交戦したくても交戦すべき武力がない事は事実であるがこの憲法は将来も日本国家がそうした武力を備えることを許さない。日本は無抵抗主義に徹底する覚悟を決めたのである。世界各国がもし日本と同じように覚悟を決めるならば、全世界は今日からでも完全な平和天国になるのである。 ? 「徹底した平和主義」 1946年3月8日 とし、首相幣原は戦争調査会の冒頭の挨拶でこう述べた。戦争を放棄すると言うことは夢の理想である、現実の政策でないと考える人があるかもしれませぬ。しかし将来学術の進歩発達によりまして原子爆弾の数十倍、数百倍にも当たる破壊的新兵器の発見せられないことを何人が保証することが出来ましょう。[中略] 今日我々は戦争放棄の宣言を掲ぐる大旗をかざして国際政局の広漠なる野原を単独に進み行くのでありますけれども世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚まし、結局私どもと同 旗をかざして、遥か後方に付いてくる時代が現れるでありましょう。 ? (「戦争調査会第回総会に於ける幣原総裁の挨拶」) 日本国憲法の平和主義とりわけ第9条はのちに厳しい批判に晒されるが、当時の国民や有識者はこの理念に深い期待を寄せていたことがうかがえる。もちろん批判的な意見も存在した。貴族院議員の南原繁はこの理念を帝国議会憲法改正特別委員会において国連加盟の条件に兵力の保有が含まれている事、他国に縋って生き延びようとするのはある種の諦めではないか[4]。と疑問を呈した。また、同時進行で進められていた主権者としての天皇から象徴天皇への移行をどう考えるかの世論調査では85%が賛成とし、天皇の存在が国民に広く受け入れられている事を裏づけた。
概要
代表的人物
沿革
戦後民主主義の発展
新憲法の制定
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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