戦場にかける橋
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戦場にかける橋
The Bridge on The River Kwai

監督デヴィッド・リーン
脚本カール・フォアマン
マイケル・ウィルソン
原作ピエール・ブール『戦場にかける橋』(1952年)[1]
製作サム・スピーゲル
出演者ウィリアム・ホールデン
アレック・ギネス
ジャック・ホーキンス
早川雪洲
ジェームズ・ドナルド
音楽マルコム・アーノルド
主題歌『クワイ河マーチ
撮影ジャック・ヒルデヤード
編集ピーター・テイラー
配給コロムビア映画
公開 1957年10月2日
1957年12月18日
1957年12月22日
上映時間161分
製作国 イギリス
アメリカ合衆国
言語英語日本語タイ語
製作費300万ドル
興行収入2720万ドル
配給収入2億1249万円[2]
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舞台となったクウェー川鉄橋(2004年撮影)

『戦場にかける橋』(せんじょうにかけるはし、The Bridge on The River Kwai)は、1957年公開の合作映画第30回アカデミー賞作品賞受賞作品。題名の「戦場にかける橋」とは、タイ王国クウェー川に架かるクウェー川鉄橋を指す(位置情報)。

製作会社はコロムビア映画で、監督はデヴィッド・リーン。フランスの小説家ピエール・ブールの『戦場にかける橋』(Le Pont de la riviere Kwai(fr) / The Bridge over the River Kwai(en))を原作にリーンらが脚色。

1997年に合衆国・国立フィルム保存委員会がアメリカ国立フィルム登録簿に新規登録した作品の1つである。
概要

第二次世界大戦の只中である1943年のタイとビルマの国境付近にある捕虜収容所を舞台に、日本軍捕虜となったイギリス軍兵士らと、彼らを強制的に泰緬鉄道建設に動員しようとする日本人大佐との対立と交流を通じ極限状態における人間の尊厳と名誉、戦争の惨さを表現した戦争映画。劇中に登場するイギリス軍兵士への数々の懲罰は、原作者のブールが実際に体験したものであるとされる。

舞台となった鉄橋が架かる川の旧来の名称はメークロン川であったが、この映画によって「クワイ川」が著名となったために、クウェー・ヤイ川と改名され、クウェー川鉄橋は公開後半世紀経過した現在でも観光名所となっている。

また、劇中で演奏される『クワイ河マーチ』(『ボギー大佐』を編曲)も世界各国で幅広く演奏される、数ある映画音楽の中でも最も親しまれている作品の1つである。

作中で日本軍兵士が持っているのは当時の日本軍制式銃器ではなく、イギリスのリー・エンフィールド小銃やヴィッカース重機関銃であったり、撮影セットとしてスリランカの密林の中に架橋されたクワイ河木橋は、史実と異なりダイヤモンド形上下トラス構造で製作されるなど、考証の面では注意が必要である。

2006年DVD『戦場にかける橋 アルティメット・コレクション』が発売された。特典映像として、製作に関するドキュメンタリーやフォト・ギャラリー、オリジナルの予告編が収録されている。また、日本語吹替音声が新規に収録されている。

1989年にイギリスで制作された映画『戦場にかける橋2/クワイ河からの生還』(原題:Return from the River Kwai)は、原題・邦題共に本作の続編であるかのようなタイトルだが、実際には無関係の作品である。その為、本作の権利元から商標侵害について訴訟を受けている[3]
ストーリー
オープニング?斉藤大佐

第2次世界大戦下において当初日本の同盟国であったタイ王国と、日本軍の占領下におかれたイギリスの植民地ビルマの国境付近に、日本軍管轄の捕虜収容所があった。「第十六捕虜収容所」と呼ばれるその場所では、日本軍と対峙する連合国軍の1国であるアメリカ海軍中佐であるシアーズを始め、捕虜となったアメリカ軍兵士が連日過酷な労役に従事していた。日本軍兵士に買収を試みるなど幾度となく脱出を図ったシアーズだが、ある日ニコルソン大佐が率いるイギリス軍捕虜一隊が収容所に移送されてきた。

隊が整列すると収容所の中から、所長である斉藤大佐が現れた。斉藤によると、「収容所付近にある泰緬鉄道バンコクラングーン間を結ぶものとするための、クウェー川に架かる橋を建設するためにイギリス軍捕虜を召集した」とのことである。また、有刺鉄線や監視塔が無いとはいえ「孤島のジャングルから脱走することは不可能だ」と忠告した。さらに「将校も兵士同様の労役を義務付けられている」と説明した斉藤に、大佐であるニコルソンは「ジュネーブ協定に反する」と申し立てたが、受け入れられなかった。
ニコルソンとシアーズ?将校会議

ある雨の日、ニコルソンは収容所の中でシアーズと知り合う。シアーズは海軍の出身で、船を戦闘で失ったのち泳いで岸まで辿り着いた。収容所にいた他国の兵士は、マラリアや赤痢、脚気といった病気や飢え、過労、銃弾での負傷や自殺などで大勢が命を落とした。そして彼もまた何かの病気を患っているらしい。

その夜7時に開かれた将校会議で、脱走について話し合われた。ニコルソンは、孤島のジャングルからの脱出は不可能であると主張。一方、捕虜生活の長いシアーズは仮に脱出を断念しても最終的には捕虜として死ぬしかないと述べ、いざという時には脱走も辞さない構えを見せた。しかし軍律を遵守するニコルソンは、シンガポールにおいて司令部から降伏を命じられたことを打ち明け、脱走は軍律に反するとし、兵隊の意欲を奪わないために、建設作業の指揮は、日本軍ではなく自らが率いるイギリス軍が行うと確認した。
労役の強要?シアーズの脱走

翌朝、斉藤はイギリス軍兵士たちに、技師である三浦中尉の指揮下で5月12日までに橋の建設を終える命令を下した。「将校も労役に参加する義務がある」と述べた斉藤に、ニコルソンは「将校の労役は禁ずる」とするジュネーブ協定の条文を見せて再び抗議。しかし斉藤は、「敗者の掟は無価値である」としてそれを退けた。それでも頑なに労役を拒否するニコルソンに斉藤は、3つ数えるまでに作業場へ向かわねば機関銃を発射すると宣告。3つ目を数えようとしたその時、軍医であるクリプトンが収容所から飛び出し「非武装の者を射殺するのが日本人か」と斉藤を非難。斉藤は宿舎の奥へと姿を隠した。

射殺こそ免れたクリプトンら将校一同であったが、機関銃の銃口が向けられたまま炎天下を直立不動で延々と立たされた。意識を失う将校がいる中を日没まで立ち続けたニコルソンらであったが、斉藤の命令により将校全員が営倉に監禁されることになった。この暴挙に、捕虜となった兵士は大挙して大声を上げ抗議。すると宿舎の中から日本兵に肩を抱かれ、意識を失ったニコルソンが現れた。

抗議の首謀者である彼は「オーブン」と呼ばれる、最も日照りの強い重営倉に監禁された。その夜、シアーズは仲間2人と収容所を脱走。仲間は日本兵に発見され射殺された。シアーズも、一発の銃声とともに川底に姿を消した。
建設の遅れ?面会

架橋の建設現場では、三浦中尉による技術指導が稚拙であることと、英軍兵士らによるサボタージュが原因で予定の半分ほどしか工事が進んでいなかった。また、シアーズらによる脱走が発覚したことも斉藤を苛立たせた。

一隊の隊長として斉藤の元を訪れたクリプトンに対し彼は、「建設期限まで時間がないため何としてでもニコルソンら将校を建設作業に従事させたい」と要求し、「応じなければ病院に収容されている患者を建設現場に派遣する」と言った。クリプトンは斉藤から5分間だけニコルソンとの面会を許可され、彼に斉藤の計画を伝えた。ニコルソンの体調が気がかりであるうえに、「患者を建設現場に送るわけにはいかない」と、ニコルソンに計画への賛同を勧めたクリプトンであったが、「斉藤の要求は『脅迫』であり、ジュネーブ協定を遵守する自分の主義に忠実でありたい」として、ニコルソンは頑なに労役を拒んだ。

クリプトンはその旨を斉藤に伝えると同時に、「ニコルソンへの厳しい待遇は非人道的であり、万が一ニコルソンが死亡すれば殺人と同罪である」と主張した。


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