戦勝記念日_(5月9日)
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このページ名「戦勝記念日 (5月9日)」は暫定的なものです。
代案としては対独戦勝記念日、対独戦勝記念日 (ロシア)、戦勝記念日 (ロシア)があります。
議論はノートを参照してください。(2022年4月)

戦勝記念日 (5月9日)
赤の広場での戦勝記念日祝勝パレード(2005年5月9日)
正式名称ロシア語: День Победы など[注釈 1]
別名対独戦勝記念日
挙行者ロシア連邦など旧ソビエト連邦構成共和国及び ワルシャワ条約機構加盟国の一部、 セルビアイスラエル
日付5月9日
行事ナチス・ドイツからの解放と戦勝
関連祝日ヨーロッパ戦勝記念日
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戦勝記念日(せんしょうきねんび、ロシア語: День Победы[注釈 1])は、ロシア連邦など旧ソビエト連邦構成共和国及び同盟国の一部で祝われる、第二次世界大戦において1945年にナチス・ドイツが降伏(英語版)しソ連が苛烈な独ソ戦を勝利したことの記念日である[1]日本語では対独戦勝記念日や対ナチスドイツ戦勝記念日として知られている[1][2]。1945年5月8日深夜(モスクワ時間では午前零時を過ぎていたため5月9日)のドイツによる無条件降伏への署名を受けて、当初は15[注釈 2]ソビエト連邦構成共和国によって制定された。5月9日、ドイツの首都ベルリンでの調印式を終えた後、日中の早い時間にソビエト連邦政府は勝利を宣言した[3]。公式な発足は1945年だったが、記念日が就業を伴わない法定休日になったのは1965年で、しかもそれは一部のソビエト連邦構成国で制定されただけであった。

東ドイツでは1950年から1966年の間は「解放記念日」として5月8日に祝われ、1985年には40周年が祝われた。1967年にはソビエト式の「戦勝記念日」が5月9日に祝われた。第二次世界大戦終戦時、および2002年以降はドイツ東部のメクレンブルク=フォアポンメルン州では「国家社会主義 (ナチス)からの解放記念日」として祝っている[4]

ロシア連邦は、ソビエト連邦の崩壊に伴う1991年の国家成立以来5月9日を公式に認定しており、たとえその日が週末に重なっても就業を伴わない休日だと(その場合は翌月曜日が振替休日となる)みなしている。記念日は同国がソビエト連邦の構成国であった時代も同様に祝われた。全国各地で祝勝記念のパレードが行われるが、特にモスクワ赤の広場で開催される大掛かりなモスクワ戦勝記念日パレード(英語版)が有名である[5]。赤の広場でのパレードは1995年からは軍事色が強まり、軍事パレードと化した[5]

その他の多くのヨーロッパ諸国は ヨーロッパ戦勝記念日(頻繁にVE DayやV-E Dayと省略される)を、国民の戦没者もしくは戦勝の記念日として5月8日に祝う。ソ連の構成国だったウクライナは2014年、ロシアによるウクライナ領クリミアへの侵略などを受けて、戦勝記念日を他の欧州諸国と同じ5月8日へ変更した[6]
歴史詳細は「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」および「ドイツの降伏文書(英語版)」を参照ドイツの降伏文書を読み上げるソ連軍ジューコフ元帥。左に座るのは英空軍アーサー・テダー(英語版)大将ドイツ国防軍を代表して降伏文書に署名するヴィルヘルム・カイテル元帥

ドイツの降伏文書は、二度にわたって署名が行われた。一度目は、フランスランスにおいて、フランス軍少将フランソワ・セヴェズ(英語版)が立ち会う形でドイツの国防軍最高司令部長アルフレート・ヨードル連合国遠征軍最高司令部(SHAEF)を代表してウォルター・ベデル・スミス、そして赤軍総司令部代表のイヴァン・ススロパロフ(英語版)によって行われた。ソ連は、第一の降伏文書の内容は赤軍総司令部の承認がない上に、下位の将校であるススロパロフには降伏文書に署名する権限が与えられてなかった事から、修正を加えた第二の降伏文書をベルリンで署名する事を求めた。ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、ソ連はランスで調印された降伏文書を準備書面と受け止めると宣言し、SHAEF司令官ドワイト・D・アイゼンハワーも直ちに同意した。別の論点として、ドイツ軍の一部はランスで調印された降伏文書を西側連合軍に限定した降伏と解釈しており、東部戦線の特にプラハでは戦闘が継続していた[7]。[スターリンの声明] 本日、ドイツは、ランスにおいて無条件降伏の準備書面に署名した。しかし、主要な貢献は連合国ではなく、ソビエト人民によってなされた物である。それゆえ、降伏文書は、連合国最高司令部の前にとどまらず、反ヒトラー連合の全ての各国の前で署名されなければならない。加えて、私は、降伏の調印がナチス侵略の中核地だったベルリンで行われなかった事も承服できない。我々は、ランスで署名された文書を準備書面として扱う事で、連合国側と合意した。

2度目の降伏文書調印式は、5月8日深夜(モスクワ時間では5月9日になっていた)に、ベルリン郊外の戦災から焼け残った建物で行われた。カール・スパーツ将軍とジャン・ド・ラトル・ド・タシニ将軍が証人として立ち会う中、国防軍最高司令部(OKW)総長ヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥がドイツ軍、ゲオルギー・ジューコフ元帥赤軍総司令部、アーサー・テダー(英語版)英空軍大将が連合国遠征軍最高司令部を代表して降伏文書に署名した。降伏文書の調印はベルリンのカールスホルスト(英語版)のソ連軍司令部で行われ、ベルリンで署名された降伏文書は、英語版およびロシア語版の双方が正文とされた。

ランスで調印された準備書面と異なり、ベルリンで調印された修正済みの降伏文書では、ドイツ全軍の武装解除(英語版)および連合国軍の現地司令官への兵器の引き渡しが明確に規定されていた。


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