戦争論
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この項目では、クラウゼヴィッツの著書について説明しています。その他の用法については「戦争論 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

戦争論
Vom Kriege
1832年にドイツで出版されたドイツ初版の『戦争論』の表紙
編集者マリー・フォン・ブリュール(初版)
著者カール・フォン・クラウゼヴィッツ
発行日1832年
発行元Ferdinand Dummler
ジャンル評論
プロイセン王国
言語ドイツ語
形態著作物

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ウィキポータル 軍事

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『戦争論』(せんそうろん、: Vom Kriege)は、プロイセンの将軍カール・フォン・クラウゼヴィッツによる戦争軍事戦略に関する書物である。本書は戦争の暴力性や形態を決める重要な要因として政治を位置づけたものであり、軍事戦略を主題とする最も重要な論文のひとつとして、今日でも各国の士官学校や研究機関で扱われている。

本書が執筆された時期は主にナポレオン戦争終結後の1816年から1830年にかけてであり、クラウゼヴィッツが陸軍大学校の学校長として勤務している時期に大部分が書かれた。1827年に原稿に大規模な修正を加えて整理しているが、未完成のまま死去したことから妻のマリー・フォン・ブリュール(ドイツ語版、英語版)が遺稿と断片的なまま残されていた最終的な2つの章を編集した。マリーが出版した遺稿集としての『戦争論』全十巻は[1]、第2版から第15版までマリーの兄ブリュールが内容を改ざんしている[2]。第16版以降、ハールヴェークが初版に依拠し直したものとなっている。
概説

戦争論は戦争という現象の理論的な体系化に挑戦した著書であり、近代における戦争の本質を鋭く突いた古典的名著として評価されている。著者のクラウゼヴィッツはドイツ観念論的な思考形態に影響を受けていたために非常に分析的かつ理論的な研究であり、そのため非常に普遍性の高い研究となっている。

『戦争論』における画期は、それまで「戦争というものがある」「戦争にはいかにして勝利すべきか」という問題から始まっていた軍事学において「戦争とはなにか」という点から理論を展開したという部分にあると言える。また、攻撃や防御といった概念について、体系的かつ弁証法的に記述してあるという点にも注目できる。クラウゼヴィッツの弁証法的思考形態は、ヘーゲルの著作を通して得たものではなく、19世紀初頭における同時代的な思想形態の変遷の中ではぐくまれていったものである。

戦争についての記述はこの著作の最も注目すべき箇所であり、定義・本質・性質・現象など戦争に関する幅広い事項が議論されている。「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」という記述はこの著作の戦争観を端的に表したものの一つである。クラウゼヴィッツにとって戦争とは政治的行為の連続体であり、この政治との関係によって戦争はその大きさや激しさが左右される。

この研究は国民国家が成立する近代において、戦争の形態がそれまでの戦争とは異なる総力戦の形態への移行期に進められたものである。そのため本書の叙述では、同時代的な軍事問題についての叙述を多く含むものでもある。近年の研究において重要視されるのは戦争の本質や政治との関係を論じた第一編「戦争の本性について」とより明確に戦争と政治との関係を取り上げた第八編「戦争計画」であり、戦争の本質についての分析は現在でも高く評価されている。

同時代の研究としてジョミニの『戦争概論』があるが、これは普遍的な戦争の勝利法があると論じたものであり、戦争論とはその内容が大きく異なる。ジョミニの研究は実践的であり、後の軍事学に多岐に渡る影響を及ぼしたと評価されているが、一方でクラウゼヴィッツの研究は哲学的であったことからより分析的な軍事学に寄与し、政治研究にも影響を及ぼした。また『孫子』と対比されることがあるが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}抽象性・観念論的な概念的な理解を中心とするクラウゼヴィッツの手法は、現在の政治学・安全保障・軍事・戦争研究においても幅広くその価値を認められる原因であり、その点が孫子とは大きく異なる。[誰によって?]
沿革
著者略歴

著者のクラウゼヴィッツは1792年に12歳の年齢でプロイセン軍に入隊し、士官として軍務に就いていた。1801年に士官学校でシャルンホルストの下で教育を受け、その後に政治学軍事学の論文を執筆する教養を習得する。1806年に所属する部隊が戦闘で敗北すると、講和締結まで一時的に捕虜になった。その後プロイセン陸軍省(ドイツ語版)で勤務し、皇太子の軍事教育も担当する。1812年にフランス軍に対抗するために一時期はロシア軍に軍籍を置きながら参謀としてフランス軍と戦った愛国的な軍人でもある。ナポレオン戦争終結後にはベルリンの陸軍大学校の校長として勤務している。戦争論の原稿はこの頃に執筆されたものである。1830年に校長を辞任して、7月革命の影響を受けて勃発したポーランド11月蜂起に対処するためポーゼンに派遣されるが、1831年にコレラにより病死した。
成立

ナポレオン戦争後の1816年ごろから執筆され始める。その出発点となったのはビューローやその他の研究者によって構築された理論の批判的考察と、実践的な目的を持った戦略学の研究、この理論を拡大して戦争理論を構築した。1819年から1827年にかけて第1篇から第6篇、第7篇から第8篇までの下書きを書き上げている。そして1820年に『フリードリヒ大王の戦役』、1824年以後に『1812年のロシア戦役』を書き上げた後の1827年から1830年までの間に『戦争論』を全面的に修正しようとしている。著者死後の1832年から1834年にかけて夫人マリーが遺稿を三部にわけて編集し、出版した。遺稿をもとにまとめられたため、重複する部分や断片的な記述に終わっている部分が見られる。ピーター・パレットなどの一部の研究者によれば、本人により完成していればより体系的かつ、コンパクトなものになっていただろうと指摘されることがある。
日本での成立

日本に初めて伝えられた時期については諸説ある。既に幕末の頃に江戸城の御蔵書のなかに含まれていたという説、蘭語訳されたものを西周が持ち帰ったという説、長崎の出島を通じて入手した説などがあるようである。

しかし、本質的にそれが、戦争哲学を学ぶ書であるというものが理解され、軍人達の間でその存在が理解されるようになったのは、森林太郎(森鴎外)によってである。森が留学中に留学仲間と輪読していたことからもあわせてみても、戦争論の紹介者としての森の地位は揺るがない。また軍内で戦争理論の徹底を図り軍人勅諭の作成等一定の成果をあげた田村怡与造も見逃せない。

その後、多くの翻訳が出されており、馬込健之助(淡徳三郎)、篠田英雄清水多吉、日本クラウゼヴィッツ学会訳などが出版されたが、現在、邦訳で入手可能なものでは、清水多吉訳、日本クラウゼヴィッツ学会訳版が、最も原本に忠実なものとなっている。
内容

戦争論の内容は8篇から構成されている:

第1篇「戦争の本質について」 - 戦争の本性、理論の戦争と現実の戦争の相違、戦争の目的と手段などを論じる

第2編「戦争の理論について」 - 軍事学のあり方やその方法論を論じる

第3編「戦略一般について」 - 戦略を定義し、従来の時間・空間・戦力の戦闘の基本的な三要素だけではなく、精神的要素を考察の対象として分析する

第4編「戦闘」 - 戦闘の一般的性質や勝敗の決定について物質的側面と精神的側面から分析する


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