犯罪学
と刑罰学
理論
アノミー
犯罪生物学
割れ窓理論
Collective efficacy
戦争犯罪(せんそうはんざい、英語: War crime)とは、戦争における国際法に反する行為の中でも、狭義には第二次世界大戦以前より認められてきた戦時法規の違反者が敵国にとらえられた場合に処罰されるものであり、広義には第二次世界大戦後に認められた平和に対する罪と人道に対する罪を狭義の戦争犯罪に加えたものである[1]。
狭義の戦争犯罪である戦時法規の違反とは、例えば捕虜虐待、毒ガスなど国際法上禁じられた武器の使用、文民による武力を用いた敵対行為、スパイ行為、戦時反逆といった、軍隊構成員が行う交戦法規違反である[1]。広義の戦争犯罪のうち平和に対する罪とは侵略戦争の実行などで、また、人道に対する罪とはジェノサイドや人体実験に代表される非人道的行為である[1]。 かつて戦争犯罪と定義されていたのは、捕虜の虐待を禁じた「ジュネーブ条約」や、非人道的兵器の使用を禁じた「ハーグ陸戦条約」など、戦時において守られなければならないとされる国際法(戦時国際法)違反行為のみであった。 第一次世界大戦終結後、戦勝国が敗戦国の指導者を裁くことが国際的に協議された。戦勝国であるアメリカ合衆国・イギリス・フランス・イタリア・日本等の連合国10ヶ国は、パリ講和会議に先だって行われた平和予備会議において「戦争開始者責任および刑罰執行委員会」(The Commission on the Responsibility of the Authors of the War and on the Enforcement of Penalties)を設立した。この委員会は国家元首をも含む戦争開始者の訴追や、対象が複数国にまたがる残虐行為戦犯を裁くための裁判所を設置するなどの報告書を提出した。この報告書は講和会議では採用されなかったが、ヴェルサイユ条約第227条である「国際道義と条約に対する最高の罪を犯した」として前ドイツ皇帝ウィルヘルム2世を特別裁判所に訴追するという条項となって反映されている[2]。この訴追は中立国であるオランダが亡命していたウィルヘルム2世の引き渡しを拒んだため裁判は行われなかった[3]。 またパリ講和会議では「戦争に関する責任を調査する十五人委員会」(en:Commission of Responsibilities
経緯
第一次世界大戦後の戦争犯罪概念
1920年には国際連盟の常設国際司法裁判所設立のための法律家諮問委員会は「国際公共秩序を侵害し、あるいは諸国の普遍的法に反する犯罪」を裁く国際高等裁判所設置を提案した。同様の提案は1922年、1924年、1926年にも行われているがいずれも成立しなかった[2]。 第二次世界大戦の最中、連合国側はドイツ軍の残虐行為を幾度も非難し、戦争終結後には責任者の処罰を求める事を強く警告していた。しかし、この時点ではホロコーストなどの自国国民への犯罪行為は戦争犯罪とみなされていなかった。 1940年11月、ポーランドとチェコスロバキアの両亡命政府は、故国で行われているドイツの残虐行為を非難する声明を行った。1941年10月25日、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相はそれぞれドイツ軍が各地で行っている残虐行為を批判する声明を発し、特にチャーチルはこの犯罪行為への懲罰が主な戦争目的のひとつに数えられるべきであるとした[4]。また11月25日にソビエト連邦のモロトフ外相もドイツの残虐行為を非難する声明を行っている。 1942年1月13日、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿においてベルギー、チェコスロヴァキア、フランス、ギリシャ、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポーランド、ユーゴスラビアの連合国9ヶ国の亡命政府が会議を開き、ドイツの民間人への残虐行為を非難し、かつ裁判によってこれらの犯罪の命令者や実行者の処罰を決議するセント・ジェームズ宮殿の宣言が出された[5]。戦争における残虐行為を裁判で処罰することを定めた最初の公式宣言となった。オブザーバーとして参加していた中国もこれに同意し、日本にも適用するよう申し出た。この宣言には後にソ連も同意する。セント・ジェームズ宮殿の宣言に合意した各国は英米に合意と実行を迫ったが、英米はライプツィヒ裁判の失敗による消極姿勢と[5]、委員会にソ連構成共和国を加えようとするソ連の主張のため、委員会設置は遅れた[6]。しかし亡命政府の要求と、東アジアの植民地で日本軍の攻撃を受けたイギリスやアメリカ、オランダなどの要求により、戦犯裁判へと動き始めた[7]。 6月になってチャーチルは戦争犯罪の証拠を収集する、連合国戦争犯罪捜査委員会 (United Nations War Crimes Commission for the Investigation of War Crimes)の設置に関してアメリカと協議を開始した。7月にはイギリス内閣で委員会設置が承認され、10月7日、ルーズベルト大統領とイギリスのサイモン(en:John Simon, 1st Viscount Simon 同11月1日、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦各国外相会談によるモスクワ宣言が出された。この中で、ドイツの主要戦争犯罪や残虐行為への処罰が言明された。またこの声明の中で、戦犯裁判は被害国が行うという原則が確認された[7]。 UNWCCの非公式会議は10月26日から開始されたが、この会議の中で戦争犯罪そのものの定義についての協議が行われた。チェコスロバキア代表のエチェル(Bohuslav Ecer) は「一つの村を絶滅させるような行為[注 1]は、(今はまだ)戦争犯罪ではないが、ルーズベルト大統領やチャーチル氏、イーデン氏(英外相)が言ったように裁かれねばならない。それゆえ、もっと広い範囲の戦争犯罪が必要である」と、戦争犯罪概念の拡大を主張した[9]。第二回会議では戦争犯罪とは何かを指し示すものとして、1919年の「戦争の法規及び慣例違反」32項目のリストを暫定的に使用することが合意された。このリストが採用された理由は、作成に日本・イタリアが参加しており、ドイツも反対はしていなかったことがあげられている[10]。UNWCCの協議は数十回にわたって行われ、その中で残虐行為はドイツ国家が一体となって行っているため、個々の犯罪容疑者だけでなく、国家やナチ党、親衛隊などの組織幹部を戦争犯罪人として裁くことが必要であると考えられるようになった[11]。 また、小委員会である法律委員会では侵略戦争が戦争犯罪であるかどうかについて議論が行われたが、戦争犯罪ではないとする意見が多数派であった[12]。
第二次世界大戦前期の戦争犯罪訴追の動き
連合国戦争犯罪委員会
戦争犯罪概念の協議