『戦争と平和』(せんそうとへいわ、ロシア語: Война и мир, ラテン文字転写: Voyna i mir)作品91は、セルゲイ・プロコフィエフの作曲したオペラ。リブレットは作曲者自身と妻のミーラ・メンデリソンによるもので、レフ・トルストイの同名の小説を原作とする。 作曲当時に開始した独ソ戦と、原作に描かれるナポレオンのロシア侵攻を重ねあわせて書かれた[1]、グランドオペラを思わせるスタイルの記念碑的な大作である[2][3]。1941年に作曲がはじめられ、10年以上上演のための改訂を繰りかえしたにもかかわらずプロコフィエフの生前に完全な上演は行われなかったが、第二次世界大戦以降のオペラでレパートリーに残った数少ない作品の一つであり[4]、「プロコーフィエフのオペラの傑作[4]」「最も優れたソヴィエト・オペラの一つ[5]」と評される[注釈 1]。 複数の改訂が行われており、作曲者は計5つの稿を作成している。 一人目の妻であるリーナ(Lina)によると、プロコフィエフはソビエト連邦帰国前の1935年の時点ですでに『戦争と平和』をオペラ化する着想を抱いていた。1941年4月、二人目の妻であるミーラが『戦争と平和』を朗読するのを聞いていたプロコフィエフは、ナターシャが負傷したアンドレイのもとを訪れる場面(原作第3巻第3部、最終稿第12場)に触発され、各場面の構想を立てはじめた[4]。
概要
作曲、初演
第1稿……1941年6月にドイツがソ連へ侵攻したことで構想は急速に具体化し、8月から翌年の4月にかけ疎開先のナリチクとトビリシで作曲が行われ、全11場からなる形(最終稿からエピグラフと第2、10場を欠く)で完成した。芸術問題委員会による審査[注釈 2]の結果すぐに第2稿が作られることになりこの稿は長らく演奏されずにいたが、2010年、リタ・マカリスター(Rita McAllister
第2稿……委員会からの意見では、作品の英雄的な面をさらに強調することと、声楽のスタイルをさらに抒情的にすることが求められていた[8]。そこでプロコフィエフは1943年にかけ、おなじアルマ=アタに滞在していたセルゲイ・エイゼンシュテインと相談しつつ改訂を進め、レチタティーヴォのかわりにアリオーソの配分を増やすとともに、エピグラフや終結部の合唱を追加し、さらにクトゥーゾフの性格をより英雄的にした[4]。ボリショイ劇場で予定されていた初演は首席指揮者のサムイル・サモスードが辞職することになって中止され、1944年10月16日、モスクワ俳優クラブ(Moscow Actor's Club)においてピアノ伴奏による演奏会形式で初演が行われた[9]。
第3稿……プロコフィエフの擁護者だったサモスードがマールイ劇場の芸術監督に就任したことで初演は現実的になったが、作品の規模が大きすぎたため、サモスードは作品をさらに長くして2夜に分けて上演することを提案し、最終稿における第2、10場が追加されてエピグラフと全13場の形となった。独立して1946年6月12日に初演された第1部は大成功をおさめ、翌1947年シーズンにかけて105回の上演を記録する[4]。しかし第2部はドレスリハーサルまで進んだ時点で「歴史的コンセプトの誤り」を理由に上演が差し止めとなった[10]。
第4稿……上演の機会を求めた[注釈 3]プロコフィエフは、検閲で問題となった第9場、第11場にくわえ、エピグラフと第7場を削除した全10場のかたちを提案した。リチャード・タラスキンはこれを正統な稿とはいえないとしているが[12]、西側にはじめてこの作品が紹介された際はこの稿が使われ(1953年5月26日、フィレンツェ五月音楽祭)、たびたび演奏された[4]。