戒厳
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「戒厳令」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「戒厳令 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

戒厳(かいげん)とは、戦時や自然災害暴動等の緊急事態において兵力をもって国内外の一地域あるいは全国を警備する場合に、憲法・法律の一部の効力を停止し、行政権司法権の一部ないし全部を軍隊の指揮下に移行することをいう。軍事法規のひとつであり、戒厳について規定した法令を戒厳令(英語: martial law)という。
概説

本来はテロなどによる治安悪化や過激な暴動を中止させるために発令が行われる。非常事態宣言との定義の違いは、戒厳とは国の立法・司法・行政の一部又は全部を軍に移管させることである[1]。通常の民事法・刑事法の適用は一部または全部停止され軍法による統治が行われる。また、裁判は軍事法廷の管轄となる場合がある。クーデターに伴い、起こした臨時政府によって発令されることもある。民衆の抗議・デモ等により政府が危機に陥った際に、反政府勢力を抑える目的で戒厳が布かれることがある。また、大規模な自然災害の際には戒厳が宣言される場合がある。戦時中であったり、または民政政府が機能していなかったり、民政政府が存在しない場合は、戒厳が布かれる場合がある。このような例としては、第二次世界大戦後の復興期のドイツと日本 、そして米国南北戦争後の南部復興の時代などがある。典型的な戒厳下では夜間外出禁止令を伴う。
歴史
フランス「合囲状態 (フランス)(フランス語版)」も参照

戒厳は、フランス革命中の1791年にフランスで施行された「戦場及び防塞の維持及び区分、防御工事等の警察に関する1791年7月10日の法律(フランス語版)」(以下「1791年合囲法」)を淵源とする[2]。1791年合囲法は、要塞(城壁をめぐらした都市であるところの要塞)が戦時状態にあるときは、内部的秩序及び警察の維持のために憲法が文官に付与した全ての権限を軍隊指揮官に移転させ、軍隊指揮官は一身上の責任によってこれを行使することを定めていた[3]。革命の渦中にあったフランスが周囲の国からの軍事的介入の危機にさらされていたことを考慮すれば、敵国による軍事的包囲という非常事態に対処する法として1791年合囲法を制定した可能性はあるが、それが1791年合囲法を制定した真の意図であったかどうかは疑わしいとされる[4]。1791年合囲法は、まず、ブルジョワ・立憲王制派が共和派を武力弾圧する手段として発動された[5]

その後は、1797年総裁政府のもとでフリュクティドール18日のクーデターが生じた際には、このクーデターを合法化するために、「共和暦5年フリュクティドール10日及び19日の2法律(Lois des 10 et 19 Fructidor An V.)」が制定された[6]。この法律においては、1791年合囲法における合囲地の制限を撤廃し、フランスの全領土に対する戦時状態及び合囲状態が認められた[7]。この法律が制定されたことによって、局地的に制限された戦時状態や合囲状態に適用される軍事的な性格を有していた1791年合囲法が、「政治的合囲状態」、すなわちクーデターのための有効な法的武器へと転化することとなった[7]。その結果、フリュクティドール18日のクーデターを再現しようとした1799年ブリュメール18日のクーデターによって総裁政府が崩壊し、ナポレオン・ボナパルトによる統領政府が誕生することとなった[7]

ナポレオンは、統領政府を経て帝位につくと(第一帝政)、1811年11月、1791年合囲法に定められた戦時状態と合囲状態を対照し、その宣告を適用する場合を列挙する詔勅(Decret du 24 decembre 1811, relatif a l'organisation et au service des etats-majors de places)(フランス語版)を発布した[7]。その具体的な事例の中には、外敵からの脅威の危険が挙げられたほか、暴動の危険が発生し、又は発生しようとする場合、すなわち、内戦状態も挙げられることとなった[7]。そのため、1791年合囲法は、国内の政治的反対派を軍事独裁によって弾圧するという目的を公然と示すに至った[7]

1848年二月革命によって成立した第二共和制においては、労働者による六月蜂起への対応として、パリに合囲状態が宣告され、軍隊が労働者を襲撃して虐殺した[8]。この武力行使によって労働者の蜂起は鎮圧され、合囲状態が宣告されたまま、第二共和制憲法が制定された[8]。同年10月には合囲状態が解止されたが、同年12月10日の選挙でルイ・ナポレオンが大統領に選出されると、1849年8月9日の戒厳令(フランス語版)(「合囲状態に関する法律」)が制定され、「ルイ・ボナパルトによるブリュメール18日のクーデター」(1851年12月2日のクーデター)に適用された[9]。この1849年8月9日の戒厳令は、第二共和制憲法106条に「戒厳令が宣言されうる場合は法律が決定し、かつこの処置の形式と効果は法律が規定する。[10]」という根拠規定を有していた。

その後、1849年8月9日の戒厳令は、第三共和制期に制定された1878年4月3日の戒厳令(「合囲状態に関する法律」)(フランス語版)によって改正され、恣意的な発動を制限するために条件及び手続が厳しく規定されることとなったが[11]、第三共和制憲法には、戒厳令を制定する憲法上の根拠は存在しなかった[12]
ドイツ「合囲状態 (ドイツ)(ドイツ語版)」も参照

専制君主時代のプロイセン王国においては、何らの制限なく国王が非常手段を執る権利を有していたが、1809年9月30日の「包囲又は包囲攻撃に際する要塞及びその地域における文事官憲及び公共団体の競合及び義務負担に関する勅令」(Das Publikandum vom 30. September 1809, uber die Konkurrenz und Verpflichitung der Zivilautoritaten und Kommunen in der Festungen und deren bei entsprechender Einschliszung order Belagerung)は、フランス法に倣って、戦時における要塞の例外状態を規定した[13]

その後、1848年のフランスの二月革命がドイツに波及して三月革命が発生すると、同年5月にはフランクフルト国民議会とプロイセン国民議会(ドイツ語版)が成立した[11]。フランクフルト国民議会は、ドイツ国憲法(パウロ教会憲法)を制定したが、翌1849年3月にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がドイツ皇帝の戴冠を拒否すると、憲法擁護を叫ぶ南ドイツ諸邦において憲法戦役が生じた[11]。これに対して、プロイセン国民議会は、実在する王権と対峙せざるをえない状況にあった[11]。同年5月にプロイセン政府が国民議会に提出した憲法草案[14]においては、暴動の際、法律が定めるところによって、身体の自由、住居の不可侵、法律に定める裁判官の裁判を受ける権利並びに集会及び結社の自由を保障した憲法の条項を停止することができると規定されていたところ[15]、プロイセン国民議会の委員会は修正案(ヴァルデック草案(ドイツ語版)[16])を作成し、その110条において、「戦争又は暴動の場合、特別法によって、遅くとも直後の議会の開会までの間、憲法第5条、第13条及び第26条の一時的かつ地域的な停止を宣言することができる。この場合において、両議院が召集されていないときは、その停止は、内閣の決定によって、かつ、その責任の下に、仮に宣言することができる。この場合、両院は直ちに召集されなければならない。」と規定した[17]。しかし、パリの六月蜂起に対する反動を契機として、プロイセンにおいても、反動の動きがあり、11月12日の王権によるクーデターによって、軍によるベルリンの制圧、市民防衛軍の解体、戒厳宣告が行われた[17]。フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、同年12月5日に欽定憲法(プロイセン憲法(ドイツ語版))[18]を発布し、国民議会を解散した[17]

1849年2月にベルリンに召集された憲法修正議会は、前年11月12日の戒厳宣告を違法であると決議したが、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、下院を解散し、欽定憲法105条2項の規定に基づき、緊急勅令として、「合囲状態に関する勅令」を制定した[19]。憲法修正議会は、1850年1月30日、修正憲法[20]を成立させたが、「合囲状態に関する勅令」についての討議は行われなかった[19]


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