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この項目では、仏教用語の我(が)について説明しています。インド哲学における総論については「アートマン」を、一人称代名詞の我(われ)については「日本語の一人称代名詞」をご覧ください。

仏教用語
我, アートマン
サンスクリット語?tman
日本語
(ローマ字: ga)
英語?tman
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仏教用語の我(が)とは、サンスクリット語のアートマン(?tman)に由来する概念[1][2]。我については、仏教ヒンドゥー教で最も見解の異なる点の一つである。

ヒンドゥー教では世俗的な我意識のみを否定してニラートマン(nir?tman、無我)といい、自我意識(aha?k?ra)のない純粋な実体としての真我(param?tman)を否定しないが[要出典]、仏教は、永遠に存続し、自主独立して存在し、中心的な所有主として、コントロール・支配能力を持つ我の存在、すなわち.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}常一主宰(じょういつしゅさい)な我を否定して無我説を立てた[2]
初期仏教

初期仏教における我は、諸法無我と表記され、ここでの我は形而上学的な自己を意味するとピーター・ハーヴェイは述べている[3]。この概念は、仏教以前のヒンドゥー教ウパニシャッドを参照しており、それによれば人は低次の自己(無常の身体・人格)および、高次の大いなる自己(真の永久的な自己・魂・アートマン・我)を持つと見なされている[4][5][6]

初期の仏教文献は、ウパニシャッドにおける「自己」と「我」の概念の妥当性を探り、すべての生物は無常の自己を持っているが、本当の高次の自己は存在しないと主張している[7]。経蔵においては、生物の実質的な絶対性または本質であるアートマンと呼ばれるものの存在を否定しており、これは仏教をバラモン教(ヒンドゥー教の原型)の伝統と区別する考え方である[8]

阿含の仏教は、次の4つの有我説を否定した[2][注釈 1]
「五蘊が我である」 - 人間の個体全体が我であるという見解。我見。

「我は五蘊を有す」 - 個体の内にあって、その中心生命となるものが我であるという見解。我所見。

「我中に五蘊がある」 - 宇宙原理が我であるという見解。我所見。

「五蘊中に我がある」 - 存在要素がそれぞれに固有な性質(自性)をもっているという見解。我所見。

部派仏教

部派仏教では種々な解釈がなされた[2]

説一切有部では、個体の中心生命としての我(人我)を否定したが、存在の構成要素の実体としての自性(法我)は常に実在するとした[2]。この見解を二種我見という[2]

犢子部正量部は、非即非離蘊の我という我が存在するとした[2]経量部には勝義補特加羅の説がある[2]
大乗仏教

大乗仏教では、個体としての我(人我)だけでなく、存在を構成している要素の実体(法我)をも否定して人法二無我を説き、全てのものが無自性であるとする[2]

部派仏教における究極的な涅槃は、全てのものが無常無我で不浄であると悟って煩悩を滅し尽くした境地であるとされたが、大乗仏教では、全てのものがもともとであることを悟った涅槃の境地は絶対的な自由の境地であり、常・楽・我・浄の徳をもつとする[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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