我等の生涯の最良の年
The Best Years of Our Lives
監督ウィリアム・ワイラー
脚本ロバート・E・シャーウッド
映像外部リンク
⇒軍用輸送機で同じ故郷に帰る3人
(TCMのムービークリップ)
ホーマーとその家族・恋人の再会
(WBOnlineのムービークリップ)
⇒ブッチのバーで再会を祝う3人
(TCMのムービークリップ)
悪夢にうなされるフレッドを慰めるペギー
(WBOnlineのムービークリップ)
⇒妻マリーとの再会を果たすフレッド
(TCMのムービークリップ)
⇒以前働いていた職場を訪問するフレッド
(TCMのムービークリップ)
⇒ウィルマに冷たく当たるホーマー
(TCMのムービークリップ)
互いの愛を確認するホーマーとウィルマ
(WBOnlineのムービークリップ)
B-17内で過去の激戦を思い出すフレッド
(WBOnlineのムービークリップ)
⇒復刻版予告編
(TCMの予告編)
ハロルド・ラッセルとキャシー・オドネル物語の主要な舞台となる「ブッチのバー」
『我等の生涯の最良の年』(われらのしょうがいのさいりょうのとし、英: The Best Years of Our Lives)は、1946年に製作かつ公開されたアメリカ合衆国の映画。第二次世界大戦後に市民生活に復帰した復員兵が直面する様々な社会問題をテーマにした数少ない作品の1つである。
不自由の無い暮らしにおいてもなお悩むアル(フレドリック・マーチ)、戦時中のトラウマに苛まれ、職探しと夫婦関係に翻弄されるフレッド(ダナ・アンドリュース)、自身の障碍に引け目を感じて家族や恋人からも心を閉ざしてしまうホーマー(ハロルド・ラッセル)、彼ら同郷の3人の帰還兵と家族たちの日々を温かく描く。
第19回アカデミー賞において作品賞をはじめ、当時のアカデミー賞最多記録(アービング・G・タルバーグ賞を含めた場合)[4]となる9部門の受賞に輝いた。興行成績においても、トーキー時代以降の映画として『風と共に去りぬ』以来という大ヒットを記録している。
また、1989年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録された作品でもある。 1945年8月に第二次世界大戦が終結した。同じブーンシティ(オハイオ州シンシナティを念頭に置いた架空の都市[5])出身のアル・スティーブンソン、フレッド・デリー、ホーマー・パリッシュの3人の帰還兵がたまたま同じ軍用輸送機に乗り合わせることで初めて知り合い、故郷に帰ってきた[6]。 元水兵のホーマーはかつて高校フットボールのクォーターバックだったが、航空母艦を撃沈された時に負った火傷が原因で、両手ともが鉤型の鉄製義手だ[7]。帰宅した彼は両親と妹ルエラ、隣家の恋人ウィルマの歓迎を受けるが、母親は彼の義手を見て泣き出してしまう[8]。 元陸軍歩兵連隊軍曹のアルは長年の銀行勤めだった[9]。瀟洒なアパートに帰宅した彼は、妻ミリーとすっかり成長した娘ペギー、息子ロブの歓迎を受ける[10]。「ジャップ」という差別用語を口にする父親から日本刀をプレゼントされたロブは「日本人は家族の絆を大切にすると聞いたよ」と言い、放射能が広島に与えた影響を問い、「レーダーやミサイルに原子力が結びつけば悲劇になるから人類は共存すべきと物理の先生が言っていた」と話す[11]。また、アルは美しい大人の女になったペギーの男関係を案じる。雰囲気の変わった家庭にアルは不安を感じ、発散のためにミリーとペギーを連れてナイトクラブに繰り出す[12]。 いくつもの勲章を胸に下げるフレッド。戦時中は陸軍航空軍大尉としてボーイングB-17の爆撃手を務め、3人の中で最も軍階級が高かった[13]が、出征前はドラッグストアでソーダ・ジャークとして働き[14]、出征のわずか20日前に結婚していた[15]。質素な実家に帰宅した彼を両親が出迎えたが、妻マリーの姿は無かった[16]。両親によると、一人暮らしを始めたマリーはナイトクラブで深夜まで働いているらしい。フレッドはそのクラブを探しに行くが、マリーは見つからない[17]。 妻と娘を伴って散々飲み歩いたアルは、ホーマーの叔父ブッチが経営するバーを初めて訪れた。そこでホーマーとフレッドを見つけ、再会を祝う[9]。一行はブッチのピアノに合わせ踊り、飲み、アルとフレッドは酔い潰れ、ミリーとペギーが2人をスティーブンソン家に連れ帰る[18]。 真夜中にフレッドは戦闘時の悪夢にうなされる。うめき声を聞きつけたペギーがなだめ、優しく寝かしつけてあげた。翌朝ペギーはフレッドに朝食を作り、マリーのアパートまで車で送る。フレッドはその別れ際、昨晩の事と今朝もそれに触れないでいてくれた彼女の優しさに感謝を伝える[19]。
ストーリー