我孫子_(大阪市)
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我孫子(あびこ)は、大阪市住吉区南東部の地名である。

本項では同地域にかつて所在した住吉郡東成郡依羅村(よさみむら)についても述べる。
概要

我孫子を称する公称地名としては、住居表示実施に伴って成立した住吉区我孫子・我孫子西・我孫子東があるが、一般的には前述の町名のみならず、現行町名としては苅田・庭井・杉本・浅香・山之内・山之内元町となっている周辺地域(大阪市編入前の旧東成郡依羅村(よさみむら)の地域。ただし、旧村の範囲と現行の町域には若干の範囲の違いがある)も含めた広域の汎称地名である。本項では公称地名の我孫子に加えて、旧依羅村の地域についても記述する。

地域はほぼ全域が住宅地となっている。鉄道の便としては、南北には阪和線地下鉄御堂筋線が通り、天王寺方面と堺市方面を結んでいる。地域内には阪和線我孫子町駅杉本町駅、地下鉄御堂筋線あびこ駅が設置されている。また場所によっては、阪和線・御堂筋線長居駅南海高野線我孫子前駅が徒歩圏内となる場合もある。

幹線道路としてはあびこ筋大阪府道28号大阪高石線)が南北を通り、また大阪府道42号・179号住吉八尾線が東西方向を通る。あびこ筋・府道42号は地下鉄あびこ南交差点で交わる。

西側は遠里小野、北側は長居、東側は東住吉区公園南矢田、南側は大和川を挟んで堺市北区および松原市天美とそれぞれ接している。

地域にある施設等の名称は、しばしば「あびこ」とひらがな書きされる。ただし大阪市高速電気軌道あびこ駅については、旅客案内の上ではひらがなの「あびこ」表記だが、正式名称は漢字の「我孫子」である。
地名の由来

我孫子の地名、および一帯の旧地名・依羅(よさみ)は、古代にこの地に居住していた豪族、依羅吾彦(よさみのあびこ)に由来するといわれる。日本書紀(仲哀9年9月10日条)では神功皇后が三韓親征の際、神の教えを祀るため依羅吾彦族のオタルミを神主にしたとある。異説としては、依羅は「寄網(よせあみ)」、吾彦は「網曳子(あみひこ)」が変化したものだともいわれ、一帯は古代には大阪湾に面した環境で、人々は当時漁業や狩猟の生活を行っていたことが窺われる。

また旧依羅村に属していた各地域の地名の由来は、以下の通りとなっている(五十音順)。

浅香(あさか) - この地を開発した浅香善右衛門宗胤の名前に由来する。

苅田(かりた) -
戦国時代に争奪目標の目印として草刈りが行われた場所だったことに由来する。かつては「かつた」と呼ばれたとされるが、現在は「かりた」と呼ばれる。

杉本(すぎもと) - 藤原定家の古歌に由来するという説がある[1]

庭井(にわい) - 大依羅神社の境内にあった井戸が「庭井の清水」の別称で呼ばれたことに由来する。

山之内(やまのうち) - 南北朝時代にこの地にあった荘園の名称に由来している。

歴史

よさみむら
依羅村
廃止日
1925年4月1日
廃止理由編入合併
天王寺村平野郷町喜連村北百済村南百済村田辺町、依羅村、長居村、墨江村、住吉村安立町、敷津村大阪市住吉区
現在の自治体大阪市
廃止時点のデータ
日本
地方近畿地方
都道府県大阪府
東成郡
市町村コードなし(導入前に廃止)
総人口3,155人
国勢調査、1920年)
隣接自治体堺市
東成郡墨江村、長居村
中河内郡矢田村天美村
泉北郡五箇荘村
依羅村役場
所在地大阪府東成郡依羅村大字我孫子字美濃邑38番地
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度35分31.7秒 東経135度30分41.3秒 / 北緯34.592139度 東経135.511472度 / 34.592139; 135.511472 (依羅村)
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依網池跡碑

古墳時代にこの地に依網池(よさみいけ)が造成された。依網池はため池として、後世まで周辺地域の水の供給に使用された。また同時期に我孫子には依網屯倉が設置された。依網屯倉は我孫子地区のみならず、現在の堺市北区から松原市にかけての地域にも広がっていたと推定される[2]

中世には鋳物師集団がこの地に居住していたと考えられる。1451年の記録文書として、苅田村・我孫子村ほか摂津国住吉郡五箇荘[3]の鋳物師代表が、京都に上納する役銭を定めたという内容のものが残っている。この地に居住していた鋳物師集団は、地理的にも比較的近い地域にある河内国丹南郡[4]を拠点にしていた河内鋳物師(丹南鋳物師)とも関連があると推定されている。

戦国時代には戦乱の舞台となり、我孫子にも陣(我孫子城:現在の我孫子観音周辺)が置かれた。

江戸時代には地域に我孫子村・山之内村・杉本村・庭井村・苅田村が成立した。一帯は農村となっていたが、1704年大和川の付け替えにより、地域を横断する形で新大和川が開削された。そのため関係の村では耕地が大きく減少した。また従来の依網池の大半が新大和川の河川敷に転用されて面積が3分の1に縮小したことに加えて、地域では従来狭山池からの水も利用していたが新大和川で供給路が分断されたために不可能になったことなどで、水事情が大きく悪化した[5]。一方で、大和川の開削によって荒れ地になった土地を再開発し、杉本村から分かれて杉本新田[6]が成立した。

明治時代には、町村制の施行に伴い、我孫子村・山之内村・杉本村・杉本新田・庭井村・苅田村・寺岡村・前堀村・堀村が合併して、住吉郡依羅村が1889年に成立した。合併以前の旧村の名称はそのまま依羅村の大字となった。その後1894年には依羅村から大字寺岡・大字前堀・大字堀(旧寺岡村・前堀村・堀村)が分離し、長居村(現:長居地区)が成立している。

1925年4月1日付で実施された大阪市の第二次市域拡張により依羅村は大阪市に編入され、旧村全域が住吉区に属した。依羅村では「農村の風景が失われる」などとして大阪市編入反対運動が起こったが、国や大阪市が編入方針を強く打ち出したため、結果的に編入されることになった。

大阪市編入直後には、旧依羅村の地域では原則として旧大字が住吉区の町名として継承された。依羅村大字我孫子は住吉区我孫子町、大字庭井は庭井町、大字山之内は山之内、大字杉本は杉本町、大字苅田は苅田町となった。ただし大字杉本新田については、大阪市編入の際に住吉区浅香町へと改称された。

1944年には町名の一部変更により、我孫子西・我孫子東・山之内元町の町名が設定された。我孫子西は従来の我孫子町・殿辻町・沢ノ町・西長居町のそれぞれ一部で設定し、我孫子東は従来の我孫子町と杉本町のそれぞれ一部で設定した。また山之内元町は従来の山之内町の一部と杉本町の一部を再編して設定している。

その後も地域内および隣接地域との間で町境界の変更が複数回実施されたのち、1981年2月2日付で住吉区全域の住居表示が実施され、現行の町名へと再編されている。住居表示実施後は従来の「○○町」から「町」の文字を省いた同じ町名が継承されているものの、町界の変更が行われ、一部の地域については従前所属していた町から他の町へ編入されている。

一帯は第二次世界大戦終戦直後までは農村地帯だったが、1950年代以降宅地化が進んだ。古代に造成され、農業用ため池としての役割を終えた依網池は1968年に埋め立てられ、大阪府立阪南高等学校のグラウンド拡張用地となった。
年表

1886年明治19年) - 現在の依羅小学校が開校。


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