我妻 榮人物情報
生誕 (1897-04-01) 1897年4月1日
日本・山形県米沢市
死没 (1973-10-21) 1973年10月21日(76歳没)
日本・静岡県熱海市
国籍 日本
出身校東京帝国大学法学部
子供我妻洋、我妻堯
学問
研究分野民法学
研究機関東京大学
学位法学博士
主な受賞歴文化勲章
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我妻 榮(わがつま さかえ、1897年(明治30年)4月1日 - 1973年(昭和48年)10月21日[1])は、日本の法学者。専門は民法。学位は法学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、米沢市名誉市民[2]。文化勲章、贈従二位(没時叙位)・贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。憲法改正に伴う家族法大改正の立案担当者の一人。鳩山秀夫に師事。弟子に有泉亨、川島武宜、四宮和夫、幾代通、加藤一郎、鈴木録彌、星野英一など。 山形県米沢市出身。英語教師の父・又次郎と家計のたしにするため、自宅で中学生相手に国・漢・数学を教えた母・つるの長男として生まれる。5人の子における唯一の息子であったため、父母を安心させなければという気持ちから一心に勉強に励んだ[3]。 小学校、県立米沢中学ともに常に首席、一高は入学・卒業とも一番だった(在学中は必ずしも首席ではなく、例えば1年次は大熊興吉
人物
戦後は、日本国憲法制定のため最後の貴族院議員に勅選され、農地改革立法に参与して中央農地委員となる。ほかに、日本学術会議の副会長、日本学士院会員にも就任。さらに、法務省特別顧問として民事関係の立法に尽力し、恩師の鳩山、末弘、穂積が果たし得なかった民法の総合的研究の完成にあたり[6]、「我妻民法」といわれる独自の民法体系を作り上げた[4]。1964年の文化勲章受章を機にその年金を母校愛から米沢興譲館高校に寄託し、財団法人自頼奨学財団を設立。後輩の育英にあてた[6]。
60年安保当時、『朝日新聞』に「岸信介君に与える」と題した手記を寄稿。岸首相の国会運営を批判し、即時退陣を訴えたほか(下記参照)、1971年には宮本康昭裁判官の再任拒否問題に関し「裁判官の思想統制という疑念は避けがたい」という文化人グループに加わり、最高裁に反省を求めるなど、反骨の人としても広く知られた[7]。
1973年10月21日、急性胆嚢炎のため、熱海市の国立熱海病院で死去。76歳没[7]。有斐閣法律学全集の『法学概論』の執筆途中の出来事であった(同書は、我妻の遺した草稿に沿って原稿を補訂できる箇所は補訂したうえ、未完のまま出版されている)。 我妻は、師である鳩山の研究に依拠したドイツ法由来の解釈論を発展させて、矛盾なき統一的解釈と理論体系の構築を目指すとともに[14]、資本主義の高度化によって個人主義に基礎を置く民法の原則は取引安全、生存権の保障といった団体主義に基づく新たな理想によって修正を余儀なくされているので、条文の単なる論理的解釈では社会生活の変遷に順応することはできないとした上で、「生きた法」である判例研究の結果に依拠した法解釈を展開した[15]。
家族
父・我妻又次郎 ‐ 私立米沢中学校の英語教師
姉・孫田ちよ ‐ 法学者・孫田秀春(1886?1976)の妻。夫の秀春は西根村 (山形県西置賜郡)に生まれ、東京帝国大学卒業後、欧米留学を経て東京商科大学教授、日本大学法文学部長、専修大学教授、上智大学商学部長などを務め、労働法の研究で知られたほか、『国体の本義』の執筆、『国家科学大系』の編集などにも携わった。長女・杜美子は富樫総一の妻、三女の杜代子は平野亮一郎(篠原英太郎の甥、平野次郎の父)の後妻となった。[8][5][9][10][11]
妻・緑 ‐ 鈴木米次郎(作曲家、東洋音楽学校(現:東京音楽大学)創立者)の四女。
長男・我妻洋 ‐ 心理学者で、東京工業大学教授等を歴任。
二男・我妻堯 ‐ 産婦人科医で、東京大学医学部助教授を経て国立病院医療センター(現:国立国際医療研究センター)国際医療協力部初代部長等を歴任した[12]。
孫・我妻学 ‐ 民事訴訟法学者で東京都立大学教授[13]。
学説