成蹊大学
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大阪市東淀川区にある「大阪成蹊大学」とは異なります。

東京都世田谷区にある「成城大学」とは異なります。

成蹊大学
正門

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成蹊大学の位置
大学設置1949年
創立1925年
創立者中村春二
学校種別私立
設置者学校法人成蹊学園
本部所在地東京都武蔵野市吉祥寺北町三丁目3番1号
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度42分41.3秒 東経139度34分23.8秒 / 北緯35.711472度 東経139.573278度 / 35.711472; 139.573278座標: 北緯35度42分41.3秒 東経139度34分23.8秒 / 北緯35.711472度 東経139.573278度 / 35.711472; 139.573278
キャンパス本部のみ
学部経済学部
経営学部
法学部
文学部
理工学部
研究科経済経営研究科
法学政治学研究科
文学研究科
理工学研究科
法務研究科(法科大学院)
ウェブサイトhttps://www.seikei.ac.jp/university/
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成蹊大学(せいけいだいがく、英語: Seikei University)は、東京都武蔵野市吉祥寺北町三丁目3番1号に本部を置く日本私立大学1925年創立、1949年大学設置。
概観
大学全体

明治、大正期の教育者・中村春二が、高師附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校旧制高等学校を起源とする。東京四大学 (成蹊大学、学習院大学武蔵大学成城大学)の一校である。岩崎小弥太今村繁三の協力を得て創設した私塾「成蹊園」が母体となっており、その後、成蹊実務学校、旧制成蹊高等学校を経て1949年(昭和24年)に新制大学となる。第二次世界大戦前は三菱財閥との繋がりが非常に強く、運営費用の大部分は三菱からの寄付で賄われていた。また1917年(大正6年)開設の成蹊実業専門学校は三菱合資会社の要請によるものであり、実業界、特に三菱での中核となる人材の育成を目的としていた。戦後は小弥太の死や財閥解体をうけて繋がりは弱まったものの、現在でも理事長以下、理事に三菱グループ各社の役員が名を連ねており、三菱グループが大学の経営に深く関わっている。成蹊学園初代理事長・岩崎小弥太以来、三菱金曜会のトップが成蹊学園理事長を務めており、現理事長には佃和夫に代わり、小林健三菱商事会長)が就任している。

卒業生として石田衣良井上荒野桐野夏生小池真理子などの直木賞芥川賞作家を輩出している。

良家の子弟が多いとされるが、開塾当初は「俊才でありながら貧窮家庭である者」を塾生に選び、支援する事を理念としていた。その教育が評判となるにつれ、良家や名家からの入塾希望も相次ぐようになったという経緯がある。

大阪成蹊大学びわこ成蹊スポーツ大学を運営する学校法人大阪成蹊学園とは、学園名(「成蹊」)の由来が同じというだけで、一切無関係である。
成蹊の名の由来

桃李不言下自成蹊

「成蹊」の名は、司馬遷が「史記」(李将軍列伝)で引用した諺「桃李不言下自成蹊」に由来する。意味は、「桃や李(すもも)は、口に出してものを言うわけではないが、美しい花やおいしい実があるから自然と人がやって来て、そこに小道(蹊)ができる。つまり、桃や李は、人格のある人のたとえで、そういう徳のある人には、その徳を慕って人々が集まってくる。」ということ。
成蹊と三菱の関係成蹊学園創設に寄与した
三菱財閥4代目総帥・岩崎小弥太
(成蹊学園初代理事長)

成蹊学園初代理事長・岩崎小弥太以来、三菱金曜会のトップが成蹊学園の理事長を務めている。

創立者中村春二は三菱と直接関係はないが、中村春二を支援し、成蹊学園創立に賛助員として尽力し、約24年間成蹊学園の理事長を務めたのが三菱財閥4代目総帥の岩崎小弥太であるため、三菱との関係が生まれた。ただし、三菱グループに所属しているわけではない。

岩崎小弥太の支援は、資金だけではなく社会への橋渡しもあった。三菱は多くの成蹊卒業生を積極的に受け入れ、卒業生は三菱財閥の発展に寄与した。中村春二にあてた書状に「本年度卒業生採用の件、ほぼ決定の運びと相成り候ところ…その中の一、二名は三菱以外の会社にて採用する方が学校の将来の為に良からんと判断、郵便会社に一名、横浜正金銀行に一名採用の交渉致すことと致し候…」とある[1]

岩崎小弥太は、現在のキャンパスである吉祥寺に約1万坪の農園「岩崎農園」や「清風荘」という数奇屋づくりの別荘を所有していたため、この農園に隣接した約8万坪の広大な土地を購入し、1938年に成蹊学園に寄贈した。8万坪は現在の成蹊学園のキャンパスと同等の広さのため、今の広大なキャンパスがあるのは岩崎小弥太の尽力が大きいことがわかる。1939年、敷地の西側に岩崎小弥太元理事長の鎌倉の別荘の正門が移築され、この門は成蹊学園内に現存している。

1943年、当時の学園理事長だった岩崎小弥太は、岩崎家のゴルフ場であった元箱根の土地6.3万坪を成蹊学園に寄贈し、現在は成蹊学園箱根寮となっている。

1944年6月、トラスコン(当時の屋内運動場)内に「三菱電機成蹊工場」が開設し、勤労動員された旧制高校の生徒達は授業を半ばに深夜までレシーバーの組立て作業に汗を流した[2]。現在は、内装を一新し、カフェテリアやコンビニ等がある憩いの場に用途を変え、「トラスコンガーデン」として現存している。

2007年4月から、成蹊大学・成蹊高校の留学制度を利用して海外に留学する学生の中から、成績が優秀であり、高い留学成果を期待できる派遣留学生を対象とした「成蹊学園三菱留学生奨学金」を導入している。

歴代理事長

任期氏名主な役職
1925年11月 - 1945年12月岩崎小弥太[3]三菱財閥4代目総帥
1945年12月 - 1947年02月山室宗文[3]1946年1月まで理事長職代行
1947年02月 - 1964年06月石黒俊夫[4]三菱地所会長
1964年06月 - 1964年09月岡野保次郎[3]理事長職代行
1964年09月 - 1978年04月小笠原光雄[5]三菱銀行頭取
1978年04月 - 1992年12月古賀繁一[5]三菱重工業社長・会長
1992年12月 - 1993年02月三橋啓了[3]理事長職代行
1993年02月 - 2002年02月飯田庸太郎[6]三菱重工業社長・会長
2002年02月 - 2009年03月岸暁[7]東京三菱銀行頭取・会長
2009年03月 - 2021年03月佃和夫[8]三菱重工業社長・会長


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