成美団(せいびだん)は、かつて存在した日本の劇団である[1][2]。1896年(明治29年)、喜多村緑郎、高田実らが大阪で結成した[1][2][3]。一度解散し、1900年(明治33年)に再結成、これを「朝日座時代」(あさひざじだい)とも「第二次成美団」(だいにじせいびだん)とも呼ぶ[1]。 1896年(明治29年)9月8日、大阪府大阪市南区道頓堀(現在の同府同市中央区道頓堀)の角座(現在の松竹芸能 道頓堀角座)で結成された[1][2][3]。素人芝居から青柳捨三郎
略歴
1896年(明治29年) - 結成
1898年(明治31年) - 解散(第1次)
1900年(明治33年) - 再結成、1920年代初旬まで活動(第2次)
概要
第一次
同劇団は「家庭小説」に題材を求め、『瀧の白糸』のほか、尾崎紅葉の『金色夜叉』、徳富蘆花の『不如帰』、菊池幽芳の『己が罪』、佐藤紅緑の『侠艶録』、徳田秋声の『誘惑』等を戯曲化し、あるいは中内蝶二の戯曲『大尉の娘』等を上演した。同劇団の演劇は、壮士芝居の大げさな演技を排し「写実芸」を開拓したとされ、好評のうちに、1898年(明治31年)に解散、これをのちに「第一次成美団」と呼んだ[1][6]。当時の舞台を観た、大阪での奉公時代の井上正夫は、それを機に新派を志し、「敷島義団」に参加したのだという[9]。解散の理由は、喜多村が五代目尾上菊五郎ら「旧劇」の芝居を模範としようと考えたことに対して、高田が反発したためであった[3]。 解散から2年後の1900年(明治33年)、喜多村、秋月桂太郎
第二次
松竹が1912年(大正元年)に開設した松竹女優養成所の第1期生だった東愛子、常盤操子も、のちに同劇団に参加している[11][12]。1916年(大正5年)には、東京新派出身の大東鬼城が加入している[13]。犬塚稔の父・大須賀豊(本名 犬塚福太郎)が座付作家として在籍し、藤山寛美の父・藤山秋美や寛美の師匠の都築文男[14]、藤田まことの叔父・曾我廼家弁天[15]、が俳優として在籍した。 1900年 - 1910年代の時期に所属したおもな俳優の一覧である[1]。
所属俳優
第1次 (1896年)
高田実 (1896年)
小織桂一郎 (1896年)
岩尾慶三郎 (1896年)
深沢恒三 (1896年)
木村周平 (1896年)[8]
木村猛夫 (1896年)[16]
第2次
喜多村緑郎 (1900年)
秋月桂太郎 (1900年)
河合武雄 (1900年)
初代 英太郎 (1902年)[10]
尾上多見太郎 (1906年)[17]
大東鬼城
岡本五郎 (1923年)[18]
東愛子 (後期)[11]
木下八百子 (後期)[19]
梅島昇 (後期)[20]
常盤操子 (後期)[12]
藤山秋美 (後期)
廣田昴 (後期)[21]
福井茂兵衛 (後期)
脚注[脚注の使い方]^ a b c d e f g h i j 成美団、コトバンク、2013年3月1日閲覧。
^ a b c d 新派[1978], p.13.