成田空港問題
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成田空港問題(なりたくうこうもんだい)とは、日本最大の国際空港である成田国際空港に関連して発生した、三里塚闘争(別称:成田闘争)を代表とする種々の社会問題のことである。「三里塚闘争」および「成田空港問題の年表」も参照成田国際空港.mw-parser-output .toclimit-2 .toclevel-1 ul,.mw-parser-output .toclimit-3 .toclevel-2 ul,.mw-parser-output .toclimit-4 .toclevel-3 ul,.mw-parser-output .toclimit-5 .toclevel-4 ul,.mw-parser-output .toclimit-6 .toclevel-5 ul,.mw-parser-output .toclimit-7 .toclevel-6 ul{display:none}
概要

1978年昭和53年)に開港した新東京国際空港(現・成田国際空港)を巡っては、1960年代初め頃から新空港候補地の検討が進められていたが、空港建設に当たり、開港を急ぐ日本国政府の強硬姿勢と当時の世相と地域固有の事情が相俟って、空港用地内外の民有地取得問題や騒音問題をめぐって、近隣住民らによる激しい反対運動が社会問題化した。

その反対運動に「革命」を目的とする新左翼の各勢力が合流し、死者を出す警察との衝突、各種テロ事件、さらには反対運動内部での主導権を巡る派閥抗争・内ゲバといった、様々な事件が発生することになった。
歴史「成田空港問題の年表」も参照
羽田空港再拡張の検討

1960年代になると、大型ジェット旅客機の増加に加え高度経済成長により年々増大する国際輸送における航空機の重要性が高まったため、滑走路の拡充による発着能力の向上が望まれた。加えて、1960年代中に就航すると予想される日本航空も発注した『コンコルド』をはじめとする超音速旅客機の就航を見越して滑走路の長大化も求められた[1]

そのため、当時の国際線の主力空港であった東京国際空港(羽田空港)の再拡張により航空需要に対応しようと検討したが、

羽田空港の沖合に拡張した場合、東京港の港湾計画との調整が極めて難しい。

当時の港湾土木技術では不可能であった。

アメリカ空軍管制区域(横田飛行場上空の「横田空域」)との兼ね合いから、航空機の離着陸経路の設定に著しい制約を受ける。

仮に拡張できたとしても、空港の処理能力は20% - 30%程度の増加に留まる。

などの理由から[2]、羽田空港の拡張のみでは長期的航空機輸送需要に対応できないことが判明した。
新空港候補地の検討当初の新東京国際空港計画案

このため、再拡張の検討に合わせて1961年昭和36年)頃から、新たな東京国際空港の候補地についての調査が開始された。

千葉県東葛飾郡浦安町(現・浦安市)沖の埋め立て地や、印旛郡富里村・八街町(現・富里市八街市)、茨城県霞ヶ浦が候補地とされ[1]、埋立工事を前提に木更津沖を推す建設省との対立もあったが、1963年12月11日に運輸省の諮問機関である航空審議会が富里案を最も候補地として適当とした。三里塚空港全体計画図

東京湾埋立案を特に強硬に主張していた河野一郎が急死した後、1965年(昭和40年)11月18日に、関係閣僚懇談会が新空港建設予定地を富里八街に内定し、橋本登美三郎官房長官記者会見を行った。既に候補地では反対運動が起きていたが、当時伊豆で療養していた千葉県知事友納武人も含めて、地元への根回しが全くされていない状態であり、突如発表を聞いた富里・八街地区の住民らは、大規模な反対運動を展開した。

当時は、下筌ダム建設時に発生した蜂の巣城紛争の経験が、まだ国政に反映されていなかった。反対運動が長引く中で友納千葉県知事と水面下での調整を進めていた佐藤内閣中村寅太運輸大臣)は、規模を大幅に縮小して、新空港建設予定地を同県成田市三里塚に変更することを1966年(昭和41年)6月22日に発表し、そのまま7月4日閣議決定した(「新東京国際空港の位置及び規模について」)。これは、国有地である宮内庁下総御料牧場や県有林の転用が可能なこと、またその周辺の主な土地は戦後開拓で入植してきた経済力のない農民[注釈 1]のものであったため、民有地の土地取得も容易に進むと考えられたからである。

富里から三里塚へ変更された過程で、国と県の間で交わされたやり取りについては、関係者の証言が食い違っており、議事録やメモも無いことから、新東京国際空港の事業認定取り消し訴訟の控訴審で「(国と県の)どちらが先に、三里塚案を提案したかはわからない」と、東京高等裁判所が1992年(平成4年)10月の判決で結論付けている[3]
政府の強権的な姿勢による空港建設と反対運動の開始三里塚芝山連合空港反対同盟 シンボルマーク

しかし、三里塚においても御料牧場[注釈 2]などの国や行政が保有している土地は空港予定地の4割弱に過ぎず、引続き民有地の土地取得が最重要問題となったが、富里・八街同様に事前説明の全くないままの発表であり、三里塚案を報道で知った地元住民は猛反発した。地元住民らは開拓地の借金問題、土地を失うことや騒音問題への懸念から「三里塚芝山連合空港反対同盟」(以下「反対同盟」と略記)を結成し、三里塚闘争を開始した。

関係者による説明・移転交渉、地権者団体との折衝の結果、1968年4月6日には新東京国際空港公団(以下、空港公団)と条件賛成派の覚書締結により民有地の89%が確保された。しかし、11%の未買収地が残ったうえ、反対派が強固に抵抗を続けたため、空港公団による買収地の測量も行えない状態が続いた。空港反対派への説明・対話が十分に行われないまま、現地に機動隊が投入され、排除を受けた反対派はこれに反発し、結果的に空港反対運動を過激化させた[4]

当初は、日本社会党日本共産党の革新政党から支援を受けていた反対運動だったが、反対派の主張に応じない政府の強権的な姿勢に対して、反対派農民が次第に「力には力で対抗する」という方針を固めたことにより、既成革新政党は反対運動から引いていった。これについて公安調査庁[注釈 3]は、「これらの政党(社会・共産)が成田闘争を踏み台にして各種選挙での支持拡大や党勢拡大を図るなど党利党略に走ったことへの反発から次第に既成政党離れを強めた[6]」と1993年(平成5年)4月にまとめた『成田闘争の概要』で分析している[7]

三里塚芝山連合空港反対同盟(北原派)の東峰にある立看「農地取上げを許さない」

天神峰現地闘争本部(2009年撮影、2011年撤去)

「岩山闘争記念館」(岩山鉄塔跡地)

横堀鉄塔(成田空港敷地内)

新左翼の支援

革新政党に代わって、「暴力革命」を掲げ、羽田事件以降実力をもってして政府と対決していた新左翼諸派が 「日帝の海外侵略基地」「労農連帯」「国家治安の最前線の三里塚で機動隊を打ち破る」「新空港は日本に新たな軍事基地を作るものだ」「全国住民運動の頂上決戦」などの理由により、反対派農民を支援した。


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