強制代執行阻止闘争[注釈 1]
三里塚闘争内で発生
日時1971年(昭和46年)2月22日から3月6日(第一次代執行)、9月16日から9月20日(第二次代執行)
場所千葉県成田市
目的土地収用の阻止
手段団結小屋の要塞化・地下壕の建設、座り込み・立て篭もり、屎尿・火炎瓶の投擲、ゲバルト棒・竹槍による殴打・刺突
結果警察官の殉職(東峰十字路事件)、対象用地の収用完了
参加集団
三里塚芝山連合空港反対同盟革命的共産主義者同盟全国委員会日本社会党
指導者
成田空港予定地の代執行(なりたくうこうよていちのだいしっこう)は、1971年(昭和46年)に新東京国際空港(現・成田国際空港)建設予定地で公共用地の取得に関する特別措置法・土地収用法・行政代執行法に基づき実施された、未買収地への行政代執行[注釈 1]である。
2月22日から3月6日まで実施された第一次代執行と9月16日から9月20日にかけて実施された第二次代執行がある。いずれにおいても機動隊や新東京国際空港公団が雇った作業員らによって団結小屋等の排除が行われたが、空港建設反対派の地元住民や支援に来た新左翼セクトが激しく抵抗して双方に多くの負傷者を出し、特に第二次代執行では実施中に東峰十字路事件が発生し警察官3人が集団暴行により殉職した。また、地元農民が居住する民家1軒の強制収用も行われた。
概要.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} 成田空港予定地の代執行地点
第一次代執行
第二次代執行
仮処分
代執行に至るまでの経緯詳細は「成田空港問題」および「三里塚闘争」を参照
新東京国際空港建設は、日本国政府側の説明・根回し不足により、地元住民らの猛反発を招いた。更に機動隊の投入等の強硬措置が取られたことで、地元住民らが当初革新政党指導のもとで結成した三里塚芝山連合空港反対同盟(以下、反対同盟)は、実力闘争を行って台頭していた当時の学生を中心とする新左翼を頼り、事態はより一層複雑化した[3][4]。
空港の設置を行う新東京国際空港公団(以下、空港公団)は、空港予定地内民有地の約9割を取得し、計画の半分の施設を1期工事で建設して開港にこぎつけようとした。しかし、未買収地は依然残されており、その中には空港に絶対不可欠な滑走路予定地も含まれていた。空港公団は1期工事区域内の土地所有者9人との用地買収交渉を重ねたが、成果は上がらなかった[4][5]。
一方東京国際空港(羽田空港)では、発着回数がその処理能力を超えたために着陸時の上空待機・離陸時の遅延などの現象が現れ、減便調整を余儀なくされており、一刻も早い国際線の移管が求められていた[6]。用地交渉の担当者からは任意の売買による用地取得を続けるべきとの声もあったが[注釈 2][10]、新空港の早期開港を目指す政府に急き立てられるようにして、空港公団は公権力による用地取得、即ち土地収用を実施するため手続きを進めていった[4][5][11]。
1969年(昭和44年)12月16日、新東京国際空港建設事業は、建設大臣からの事業認定を受けた[根拠法令 1][4][12]。これにより空港建設は公共事業として扱われ、地権者の意思にかかわらず、千葉県収用委員会の採決を条件として、千葉県知事の権限で行政代執行法の手続きのもと必要な土地を収用することが可能になった[根拠法令 2][根拠法令 3]。収用の規模としては、「蜂の巣城紛争」で知られる下筌ダムを凌ぐ、戦後最大のものとなった[13]。
翌1970年(昭和45年)から空港公団は、県収用委員会への申請に必要な土地調書及び物件調書を作成するため、未買収地への立入調査を実施した[根拠法令 4]。これに対し反対派は、子供を含む家族総出で抵抗した。同年9月30日から10月2日に実施され『三日間戦争』と俗称される第三次立入調査では、反対同盟は「糞尿弾」「黄金爆弾」と称して人糞を詰めたポリ袋を空港公団の測量班や機動隊に投げつけるなどして抵抗し、空港公団や機動隊との激しい攻防が行われ、逮捕者が59人にも及んだ[14][15]。
1970年3月3日、空港公団は、滑走路予定地の北端にあり大規模な埋め立てが必要となる谷津田の6件6筆[注釈 3]の一坪共有地1486 m2について、県収用委員会に権利取得と明渡しを求めて申請を行った。同年12月26日、県収用委員会は、権利取得の時期及び明渡しの期限を1971年(昭和46年)1月31日とする権利取得裁決及び明渡裁決をした[4][12][17][18]。