成田和也
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成田 和也
Kazuya Narita

基本情報
本名成田 和也
なりた かずや
愛称なりちゃん
生年月日 (1979-02-25)
1979年2月25日(45歳)[1]
国籍 日本
身長172cm[1]
体重73kg[1]
選手情報
所属日本競輪選手会福島支部
期別88期[1][2]
脚質追込[1]
アマチュア経歴
中央大学
登録地変遷
2003-福島
業績
S級S班2010-2014
特別競輪勝利日本選手権競輪 2012
高松宮記念杯 2013
SSシリーズ風光る 2011
サマーナイトフェスティバル 2010
■最終更新日:2014年11月26日  ■テンプレートを表示

獲得メダル
日本
男子 自転車競技
UCIトラックワールドカップクラシックス
銀2004 モスクワチームスプリント
銀2005 シドニーチームスプリント
2008 メルボルンチームスプリント
銅2004 ロサンゼルススプリント
銅2005 マンチェスターチームスプリント
アジア競技大会
2006 ドーハチームスプリント
2010 広州チームスプリント

成田 和也(なりた かずや、1979年2月25日[1] - )は競輪選手、元自転車競技選手。福島県須賀川市出身。日本競輪選手会福島支部所属、ホームバンクは泉崎国際サイクルスタジアム日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第88期生。師匠は佐藤一朗(63期)。
経歴

1979年2月25日[1]福島県須賀川市に生まれる。福島県立須賀川高等学校時代まではスキー自転車競技の2種目に取り組んでいた[3]。しかしスキーでは20位前後の実績しか残せず、中央大学進学時に「とても世界に通用するレベルではない」と断念し、高校時代に夏のトレーニングの一環として取り組んでいたインターハイのタイムトライアルで10位以内の成績を収めていた自転車部に入部する[3]。1年時に全日本学生選手権自転車競技大会でスプリントと1000mタイムトライアルでともに4位に入賞[3] すると、2年時と3年時にはスプリント優勝、タイムトライアル2位という成績を収めた[4]

「世界で戦える選手になりたい」と志していた成田はさらに成績を向上させるべくフォームや自転車のセッティングを変えるなど試行錯誤したが思うようにいかず、逆にフォームを崩してしまう[5]。成田は迷いを抱えたまま「短距離選手が鍛錬を積むには実業団よりも競輪のほうがよい」という判断から競輪学校受験を決意、試験1か月前に、大学の先輩でもある競輪選手(当時)の佐藤一朗の指導を仰いだ[5] が、2次試験で緊張のあまり肩に力が入り、1000mのタイムトライアルで1分14秒というかつて経験したことのない[† 1]遅いタイムを記録し不合格となる[6]。当時、競輪学校の受験要件には年齢制限があり、成田が受験する機会はあと1回しか残されていなかった[† 2]。正式に佐藤に弟子入りした成田は重圧と戦いながら練習漬けの日々を送り、2002年に2度目の受験で合格した[7]

競輪学校に第88期生として入学。88期は現在の競輪界及び日本の自転車競技界を牽引する錚々たる面々が揃っており、ソルトレイクシティオリンピック代表であった武田豊樹を筆頭に、同県である山崎芳仁渡邉一成(以下渡邉)、金成和幸や、佐藤友和に加え、武田がいなければ一番の逸材と目された永井清史岐阜)らが同期である。入学当初からデビュー後を見据えていたという成田は、訓練では勝ち負けよりも自分の走力を試したいという思いから先行にこだわり、最後には抜かれてしまうことが多かった[8] が、卒業記念レースでは追い込みに転じ、2回の予選と準決勝、さらに決勝と4回のレースすべてで1着となる完全優勝を達成した[9]。在校競走成績が全75生徒中66位でしかなかったにもかかわらず完全優勝を果たしたことから、一躍注目されることになった。

デビュー戦は2003年7月5日いわき平競輪場で迎え初出走初勝利を挙げた[2]2004年6月、岸和田競輪場で開催されたレインボーカップで優勝してS級特進を果たした。そしてデビュー当初から「世界への夢だって、まだもっていますよ。五輪や世界選手権にもチャンスがあれば走りたい」と語っていた[10] 成田は同年の秋、トラックレース日本代表に選出され、以後3年間は自転車競技選手としての活動が主体となった。

当時の日本代表監督であったゲーリー・ウェストが4年後の北京オリンピックを睨んで、内田慶や同期の渡邉ら当時の若手を大胆に抜擢した策に出たが、UCIトラックワールドカップクラシックス(トラックワールドカップ)第2戦のロサンゼルスのスプリントでは3位、さらに同第3戦のマンチェスター、同第4戦のシドニーのチームスプリントでは、渡邉・及川とのトリオで、それぞれ3・2位に入る健闘を見せた。また2005年にロサンゼルスで開催された世界自転車選手権でも、渡邉、及川のトリオで挑んだチームスプリントで6位入賞を果たした。

2006年アジア競技大会のチームスプリントでは、渡邉、新田祐大のトリオで挑み、決勝で中国を下し金メダルを獲得。また2007年世界選手権のチームスプリントでは、渡邉・井上昌己のトリオで挑んで7位に入った。しかし、自身が目指していた北京オリンピック出場の夢は果たせなかった。

2008年トラックワールドカップ第2戦のメルボルン大会のチームスプリントにおいて、2年前のアジア大会で金メダルを獲得した、渡邉、新田とのトリオで挑み、第1走として2位に貢献した。

競輪のほうでも一線級の選手としての活躍を見せており、2007年(4着)と2008年(5着)に寛仁親王牌の決勝へ進出。2009年共同通信社杯秋本番の決勝で2着に入り、年間の獲得賞金が上位となったことから、2010年は自身初のS級S班格付けなった。同年7月には函館競輪場で開催されたサマーナイトフェスティバルで自身初のGII優勝を飾っている。2011年東日本大震災の影響を受け、練習場所を転々とすることを余儀なくされたが、松戸競輪場で開催されたSSシリーズ風光るの決勝で山崎芳仁の番手を捲った伏見俊昭をゴール直前タイヤ差で捉えてGI初優勝を手にし、このレース最後の覇者となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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