成田ニュータウン
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成田ニュータウン(なりたニュータウン)は、千葉県成田市に計画されたニュータウンである。「成田NT」と略される場合もある。
目次

1 概要

2 沿革

2.1 年表


3 都市形態

4 地区

5 主な商業施設

6 行政施設

6.1 成田市

6.2 千葉県

6.3 国


7 交通

7.1 鉄道

7.2 バス

7.3 道路


8 教育施設

9 都市計画公園

9.1 運動公園

9.2 地区公園

9.3 近隣公園

9.4 街区公園


10 近隣のニュータウン

11 関連項目

12 その他

13 脚注

14 外部リンク

概要

都心から50km圏内。成田国際空港から西に約8km、JR成田駅から約1.8km西に位置する。2010年7月17日にはニュータウン北部に成田スカイアクセス成田湯川駅が開業した。標高10 - 40mの山林を主体とした東西約2.5km、南北約3kmの丘陵地帯に広がる。事業主体は、千葉県北総開発局(現:千葉県企業庁)事業面積は487ha、計画人口は60,000人、住宅約16,000戸、事業費834億6千万円。新住宅市街地開発法に基づき1968年(昭和43年)に事業が着手された。1971年(昭和46年)に中台地区において、運輸省(現:国土交通省)関係の公務員住宅で入居が開始された。また、一般入居は、翌1972年(昭和47年)の同じく中台地区である。1988年(昭和63年)に事業精算を完了した。2012年1月末現在、人口は33,257人。世帯数は14,392世帯。印旛沼に近く自然環境に恵まれている。
沿革

成田ニュータウンは、新東京国際空港(現:成田国際空港)関連就業者や空港建設に伴って流入する人々の為の移住地区として、千葉県北総開発局(現:千葉県企業庁)によって造成された。ここは、
門前町とは反対側の鉄道の西側にあたり、と山林が混在する地域であった。このモデルはロンドン郊外のニュータウンにあり、近代的街造りを目指して1968年(昭和43年)から造成が始まった。しかし、空港開港の遅れから1975年(昭和50年)時点の人口は8,000人に留まった。1978年(昭和53年)の新東京国際空港開港時点においても、ニュータウンの北東部は建設中であり、旧市街地(門前町)や成田駅東口に接続されておらず、交通の便が悪くニュータウンは孤立していた。同年、成田ニュータウンと郷部、土屋、国道408号を結ぶ全長260m、幅員20m、片側2車線の郷部大橋が開通。茨城県つくば市龍ケ崎市)や成田空港方面へのアクセスが容易になる。1985年(昭和60年)には人口は3万人を突破した。現在では、駅とニュータウンの間の囲護台地区も整備され、成田駅西口も同時に整備された。2003年、成田ニュータウンと旧市街地(門前町)を結ぶ踏切が立体交差化され、新旧市街地のアクセス面が改善され、2006年、成田ニュータウンと国道51号を結ぶ都市計画道路郷部線の不動トンネルが14年の歳月を掛けて開通。2010年7月17日にはニュータウン北端に成田湯川駅が開業し、鉄道交通での利便性が大きく向上した。

年表

(事業開始から事業終了まで)

1968年(昭和43年)4月 北総地域開発事業に地方公益企業法を適用し、千葉県北総開発局を設置。成田ニュータウン造成開始と共に、用地買収全面的に着手。

1969年(昭和44年)11月 1・3住区造成工事開始。地区センター工事着手。

1970年(昭和45年)4月 千葉県開発局が発足。

9月 1・3住区の一部分譲開始。

12月 地区センター工事完了。


1971年(昭和46年)2月 2・4・5住区造成開始。

3月 建築物の建設開始。

11月 6・7・8住区造成開始。


1972年(昭和47年)4月 第1次入居開始。

1973年(昭和48年)2月 千葉交通バスが運行を開始。成田警察署赤坂派出所(現在、移転し赤坂交番と改称。)が開所。

3月 成田ニュータウンセンタービル完成。


1974年(昭和49年)4月 千葉県企業庁が発足。

1975年(昭和50年)4月 2住区に千葉県立成田西高等学校(現・千葉県立成田国際高等学校)が開校。

1976年(昭和51年)2月 新住宅市街地開発事業の事業計画変更許可。(期間延伸)

1977年(昭和52年)5月 2住区に千葉県成田警察署が転入。開署。

1978年(昭和53年)10月 新住宅市街地開発事業の事業計画変更許可。(期間延伸)

1979年(昭和54年)4月 センター地区に成田市立中央公民館、2住区に佐倉保健所成田支所の開設。

1980年(昭和55年)4月 7住区に千葉県立成田北高等学校が開校。

1981年(昭和56年)6月 センター地区に成田郵便局が開局。

1983年(昭和58年)8月 新住宅市街地開発事業の事業計画変更許可。(期間延伸)成田税務署が開署。

10月 6住区にサブセンターが完成。


1984年(昭和59年)10月 センター地区に成田市立図書館が開館。

1987年(昭和62年)3月 最終工事完了公告(新住宅市街地開発による事業終了)

1989年(平成元年)3月 事業終了。

都市形態

地区センターを中心として、その周りを8つの住宅地区が取り囲んで、小学校(8校)、中学校(4校)、高校(2校)、公園などを有機的に配置し、造成にあたっては、数多くの古墳や遺跡を残し保存に努めた。

計画当初の計画人口は約6万人。そのうち、成田空港関連企業の従業員とその家族の人口が約2万人、そのうち単身者が約6千人程度。周辺の内陸工業団地に進出する企業の従業員とその家族、周辺地域から流入する人口を約4万人と想定していた。

当初の計画住宅供給戸数は約1万6千戸。独立住宅用地の宅地規模は平均230平方メートル、公社などによる建売用住宅用地は平均200平方メートルと計画。テラス住宅は宅地1戸当り170平方メートル、容積率50%と計画。中層住宅は、公団住宅、公営住宅、空港関連進出企業などの従業員と計画し、日照、通風、プライバシーなどに配慮し、宅地規模1戸当り85平方メートル、容積率100%と計画。高層住宅は主に単身者用住宅及び、独身寮と計画。住宅都市整備公団及び、進出企業などにより建設し、宅地規模は1戸当り60平方メートル、容積率100%と計画し、パーキングスペース、屋外スポーツ用地を確保した。
地区
中台
ボンベルタ百貨店屋上からの加良部・中台方面。ケヤキ並木を挟んだ左右に並ぶ茶色の建物は、日航社員寮跡地に建てられた分譲マンション成田ニュータウンでは、加良部地区と同じくJR成田駅西口に最も近い地区。駅前大通り沿いには、成田市立中台運動公園や、UR都市機構住宅、国家公務員官舎(主に、財務省税関国土交通省航空局など、空港関連で働く職員。)、分譲マンションなどが建ち並び、奥には、県営住宅や戸建て住宅などが建ち並ぶ地区[1]
加良部
中台地区と同じく、ニュータウンでは、JR成田駅西口に最も近い地区。駅前大通り沿いには、ハローワーク成田警察署、日本航空社宅、成田税務署、教職員住宅、県警察官舎、UR都市機構住宅などが建ち並び、奥には、全日空社宅、その他空港関連企業社宅や、UR都市機構住宅、戸建て住宅、分譲マンションなどが建ち並び、比較的、官公庁などが多い地区。また、千葉県立成田国際高等学校がある。 成田ニュータウンセンタービル。現在は解体、跡地は赤坂保育園。
赤坂
成田ニュータウンでは、中心に位置するのが赤坂地区であり、赤坂公園、市立図書館、公民館、金融機関(千葉銀行千葉興業銀行京葉銀行千葉信用金庫)、成田郵便局、成田で唯一の百貨店である、ボンベルタ百貨店[2]カワチ薬品千葉トヨペットフォルクスワーゲン DUO成田NTT(持ち込み修理サービスセンター)、保健福祉館、救患診療所、消防署などがある。


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