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出典検索?: "成瀬正一" 戦国武将
凡例成瀬 正一
成瀬正一(一斎)像(白林寺蔵)
時代戦国時代 - 江戸時代
生誕天文7年(1538年)
死没元和6年6月28日(1620年7月27日)
改名正一、一斎(号)
別名吉右衛門(通称)
墓所仏照寺
主君武田信玄(北条氏康)→徳川家康
氏族成瀬氏
父母父:成瀬正頼
兄弟正義(藤蔵)、正一
妻正室:熊谷真連の妹
継室:山上淡路守の娘、倉賀野甚兵衛の姉
子正成、吉正、正武、女(日下部宗好の室)、
正勝、正則、女(都築一成の室)、
女(金丸治部左衛門の室)
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成瀬 正一(なるせ まさかず)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。徳川氏家臣。成瀬正頼の次男。
若い頃は武田氏や後北条氏に遊仕し、のちに徳川氏に帰参し徳川家康の旗本となる。兄の正義の死後、三河成瀬氏の家督を相続し、長篠の戦いなどで活躍。本能寺の変以後は甲州奉行として甲斐国の取り込みを円滑にした。鉢形城代官職を経て、旗奉行として関ヶ原の戦いに参陣。最後は伏見城留守居役に任ぜられた。 永禄3年(1560年)頃、徳川氏を出奔して武田氏に仕える。第四次川中島の戦いでは、打ち取られてしまった諸角虎定の首級を石黒五郎兵衛と共に取り返し、武田信玄より黒駒の地を与えられる。 諸説あるが、北条氏康からの誘いを断り(北条氏に一時期仕えたという説もある)、徳川氏に復帰。その後は兄である藤蔵正義 高天神城の戦いでは、天正8年(1580年)に日下部定好と共に小笠山・中村・能ヶ坂・火ヶ峰・獅子ヶ鼻・三井山の六砦間の連携を行い包囲網を強化し、天正9年(1581年)に高天神城を落城させる。 天正10年(1582年)には駿河侵攻時に行き詰った田中城攻略のため急遽呼び出され、山本帯刀(後に越後長岡藩家老)と共に依田信蕃に降伏勧告を行い、大久保忠世への城引渡しに応じさせた。 同年に武田氏が滅すると、織田信長による苛烈な旧武田家臣の粛清が始まり、恵林寺の焼き討ちなどが起こる。
生涯
武田家時代
徳川家帰参後
三河時代