成瀬仁蔵
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なるせ じんぞう成瀬 仁蔵

生誕1858年8月24日
安政5年6月23日
周防国吉敷郡(現・山口県山口市
死没 (1919-03-04) 1919年3月4日(60歳没)
墓地雑司が谷霊園
国籍 日本
出身校アンドーバー神学校クラーク大学[要曖昧さ回避]
職業教育者
著名な実績日本女子大学校(現:日本女子大学)創設
宗教キリスト教
混交宗教

成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、安政5年6月23日1858年8月2日[1] - 大正8年〈1919年3月4日)は、日本牧師教育者。日本における女子高等教育の開拓者の1人である。族籍は山口県士族[1]
生涯
出生から就職まで

周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市吉敷赤田大形)に生まれる。成瀬小右衛門の長男[1]。成瀬家はもとは河崎姓で、仁蔵の父の代に成瀬姓を名乗る。父は長州藩毛利家の一門・吉敷毛利家に仕える下級武士。仁蔵の母・歌子は隣村の大歳村出身で、藩士である秦家の娘。

仁蔵は幼少時は郷校の憲章館に学び、維新後の1874年(明治7年)には調剤師として医家に住み込む。この年には父が死去し、山口の教員養成所(山口師範学校)の2期生となる。1876年(明治9年)に卒業し、小学校教員となる。
大阪時代 成瀬仁蔵と妻の満寿枝

1877年からアメリカに留学し、帰国後牧師になった同郷の沢山保羅の感化を受けて山口を離れ、1878年(明治11年)に大阪浪花教会で入信する。組合教会の運動で同年に設立された梅花女学校で主任教師を務め、翌1879年(明治12年)には浪花教会に属し、旧福井藩士の娘で女学校生徒であった服部満寿枝と結婚。私財を投じて学校経営の維持を図るなど教職には熱心であったが、伝道活動への意思が強く、1882年(明治15年)に卒業生を送ると教職を辞し、牧師としての活動をはじめる。沢山保羅の浪花教会を拠点に、翌1883年(明治16年)には奈良県生駒郡郡山町(現大和郡山市)の出張伝道所へ移る。1884年(明治17年)には郡山教会の独立を許されてその初代牧師となり、布教活動をおこなう一方で女子教育を研究する。 現在の日本女子大学
新潟時代

このころ、キリスト教受容の壁が厚かった新潟ではT・P・パーム押川方義らが教会を形成した。1883年にパームが帰国すると、O・ギューリック夫妻とR・H・デイヴィス夫妻らアメリカン・ボードのメンバーが伝道を引き継いだが、伝道活動が困難をきわめており、成瀬は組合から新潟での伝道を依頼される。成瀬はこれを拒むが、病床の沢山から赴任を懇願されると新潟へ移り、1886年(明治19年)には新潟第一基督教会(現・日本基督教団新潟教会)を設立。女子の就学状況が不振であった新潟で女学校の設立案が出されると成瀬はこれに参加し、翌1887年(明治20年)に私立新潟英学校を基礎に設立された新潟女学校の校長となる。同じく英学塾を基礎に設立された男子中等教育機関である北越学館にも関わり、教師として招かれた内村鑑三が生徒の支持を得て分離する動きを見せると、成瀬らは内村に反論し、解任を求めた。内村が去った後には旧知の松村介石や麻生正蔵らが招かれた。詳細は「北越学館事件」を参照
米国留学

1890年(明治23年)にはアメリカへ渡る。アンドーバー神学校クラーク大学[要曖昧さ回避]で教育学や社会学、キリスト教などを学び、ユニテリアン的な思想を身に付け、各種社会施設も視察して女子教育研究を行い、1894年(明治27年)に帰国。
日本女子大学校設立へ

第5代梅花女学校校長を務め[2]、女子高等教育機関の設立に着手。成瀬はこの梅花女学校校長時代に日本初となる「球籠遊戯」(日本式バスケットボールの原型)をカリキュラムに採用、後に自らが創立した日本女子大学校でも「球籠遊戯」をカリキュラムに採用していることから、成瀬はバスケットボール紹介者のひとりと言われている[2][3]


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