成子不二館
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成子映画劇場
Naruko Eiga Theatre
種類事業場
市場情報消滅
略称不二館、成子松竹、成子映画
本社所在地 日本
169-0074
東京府豊多摩郡淀橋町柏木191番地[1](現在の東京都新宿区西新宿8-19-2)
設立1915年ころ
業種サービス業
事業内容映画の興行
代表者南川達次郎
資本金25万円(1915年)
主要株主南川達次郎
松竹
関係する人物南川光作
特記事項:略歴
1915年 成子不二館開業
1939年 成子松竹映画劇場に改称、成子地下映画劇場を併設
1950年代 成子映画劇場に改称
1970年ころ 閉館
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成子映画劇場(なるこえいがげきじょう)は、かつて存在した日本の映画館である[2]。1915年(大正4年)に成子不二館(なるこふじかん)として開業[3][4][5][6]第二次世界大戦中の一時期、成子松竹映画劇場(なるこしょうちくえいがげきじょう、旧漢字表記成子松竹映畫劇場、略称成子松竹)と改称、地下に成子地下映画劇場(なるこちかえいがげきじょう、旧漢字表記成子地下映畫劇場)を併設したが[7][8]、戦後は地下を閉じ、表題の館名(略称成子映画)に改称した[9]。1970年(昭和45年)ころ閉館。

不二館時代の関東大震災直後に、牧野省三マキノ映画製作所が大手にパージ[10]された際に全国公開の一番手を引き受けてこれを救い、阪東妻三郎の初主演作『鮮血の手型』を全国に先駆けて公開し[11][12]、同社作品の全国一番館となったこと等で知られる[13][14]
沿革

1915年 - 成子不二館として開業
[3][4][5]

1939年 - 成子松竹映画劇場に改称、地下に成子地下映画劇場を併設[7]

1950年代 - 成子映画劇場に改称[2][9]

1970年ころ - 閉館

データ

所在地 :
東京府豊多摩郡淀橋町大字柏木191番地[4][6]

のちの東京府東京市淀橋区柏木町1丁目191番地[1][7]

現在の東京都新宿区西新宿8-19-2[2] (現況は西新宿TKビル[15]

.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分43.4秒 東経139度41分26.0秒 / 北緯35.695389度 東経139.690556度 / 35.695389; 139.690556

開業資本金 : 25万円(1915年[5]

観客定員数 :

552名(1927年[4]

430名、地下劇場209名(1942年[7]


最寄駅 : 都電杉並線成子坂下停留所

概要

茨城県出身の人物・南川達次郎(南川達二郎[6])が、1915年(大正4年)、25万円(当時)の資本を投入し、まだ郡部であったがすでに繁華街となっていた東京府豊多摩郡淀橋町柏木191番地(現在の東京都新宿区北新宿2-21-2)に、成子不二館として開業した[3][4][5]。同年発行の『キネマレコード』第4巻第38号に府下新宿の映画館として、新宿館とともにリストアップされた。

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災に被災するが、急ピッチで復興を進め、新宿武蔵野館が復興した同年10月6日の3日後の同月9日には、開館することができた[16][17]。そのころ、震災の混乱に乗じた日活の横田永之助が、他社によびかけ、同年6月に日活から独立した牧野省三のマキノ映画製作所を中心とした独立プロダクションを排撃する動きに出たが、そのとき、マキノ作品の新作を全国公開の一番手として引き受けたのが、独立自主興行を行っていた同館であった[10][11][12][13][14]。同館復興の1週間後の同月17日、『鮮血の手型 前篇』(監督沼田紅緑、脚本寿々喜多呂九平)、同月26日にはその後篇を公開、同作は阪東妻三郎の本格的初主演作であり、それを日本で最初に上映することができた[11][13]。震災前までのマキノ作品の全国公開の一番手は、高松豊次郎が経営する浅草公園六区大東京[18]であり、1926年(大正15年)1月には一番手は大東京に戻ったが、その後も同館はマキノ上映館として残った[11][13][14]。1925年(大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・四年』によれば、同年当時の同館は、東亜キネマ帝国キネマの邦画(日本映画)の専門館となっていた[3]。『日本映画事業総覧 昭和五年版』によれば、同年当時の同館は、当時の観客定員数は552名、興行系統は日活に変わっており、経営は南川達次郎の個人経営、支配人は石川仁太郎であった[4][6]

トーキーの時代に入り、1939年(昭和14年)、松竹が同館を買収して直営化し、成子松竹映画劇場と改称した[8]。その後、第二次世界大戦が開始され、1942年(昭和17年)には戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給により、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、松竹の経営のもと、白系の配給系統に入った[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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