成人映画
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成人映画が上映される映画館、名古屋市中村区の中村映劇館外に貼られたポスター京都市本町館

成人映画(せいじんえいが)は、日本レイティングシステムによる映画のジャンルであり、映画倫理委員会(映倫)、あるいはその前身の映画倫理規程管理委員会が、「18歳未満の者の鑑賞には不適当」と認め「成人向け」と指定した映画群である[1][2]。18歳未満の入場が制限される[1][2]。時代・社会情勢によってその定義、範疇は変化しており、必ずしも「ポルノグラフィックな映画」「ポルノ映画」を意味せず、「反社会的な映画」「残虐な映画」として「成人映画」に指定される作品も存在する。

2009年(平成21年)4月23日に映倫が制定した、現行の「映画倫理綱領」および「映画の区分と審査方針」には、「成人映画」「成人向け」の表現は存在せず[3][4]、「R18+」などという区分名称となっている。

日本を含めた一般的な意味でのポルノグラフィックな映画( Pornographic film )については、「ポルノ映画」を参照

日本の成人映画・ポルノ映画のうち、独立系映画の総称については、「ピンク映画」を参照

略年譜[ソースを編集]

1949年昭和24年)6月14日 「映画倫理規程」制定、「映画倫理規程管理委員会」(旧映倫)発足[5]

1954年(昭和29年)8月 旧映倫、「映画と青少年問題対策協議会」設置、「青少年向映画」「成人向映画」の選定開始

1955年(昭和29年)5月 旧映倫、18歳未満の観覧を禁止の「成人向映画」の選定開始

1956年(昭和31年)12月 「映画倫理管理委員会」(新映倫)発足[5]

1957年(昭和32年) 「成人向映画」を「成人映画」と改称

1962年(昭和37年)3月 映倫が「成人映画」指定して公開した映画『肉体の市場』が警視庁に摘発される

1963年(昭和38年)5月 映倫が「成人映画」指定して公開した映画『セクシールート63』が警視庁に摘発される

1971年(昭和46年)11月 大手最古参の日活が「一般映画」製作を中止、日活ロマンポルノを開始する

1972年(昭和47年)9月 日活ロマンポルノ事件(1980年7月、無罪確定)

1998年(平成10年) 映倫が審査基準改定、「一般映画」「PG-12」「R-15」「R-18」とレイティングを細分化[6]

2009年(平成21年)4月23日 「映画倫理綱領」制定、レイティングを刷新し「R-18」に代わる「R18+」を設置、「映画倫理管理委員会」を「映画倫理委員会」と改称[5]

略歴・概要[ソースを編集]
成人向映画[ソースを編集]

現在の映倫(映画倫理委員会)に全面改組される前身、「映画倫理規程管理委員会」(旧映倫)が、1949年(昭和24年)6月14日に制定した「映画倫理規程」に従って、「青少年向映画」「成人向映画」の選定を開始したのは、1954年(昭和29年)8月であった。これによって、「成人向映画」に指定されたのは、田尻繁監督、柳家金語楼主演のコメディ映画『若夫婦なやまし日記』(製作東京映画、配給東宝、1955年9月13日公開)、永井荷風原作、久松静児監督、久慈あさみ主演の文芸映画『「春情鳩の街」より 渡り鳥いつ帰る』(同、同年6月21日公開)、子母沢寛原作、松田定次監督、片岡千恵蔵主演による時代劇映画『弥太郎笠』(製作東映京都撮影所、配給東映、同年6月13日公開)といった、現在では「G」(一般映画)に分類されて、映画館で通常に上映されるような作品であった。

同体制のもとで「成人向映画」に指定された、石原慎太郎原作、古川卓巳監督、長門裕之主演の映画『太陽の季節』(製作・配給日活)が1956年(昭和31年)5月17日に封切られるや、各地で問題になり、「映画倫理規程管理委員会」は解体に追い込まれる[5][7]。同年12月、現在の映倫(映画倫理委員会)につながる「映画倫理管理委員会」(新映倫)が、映画業界外部の組織として発足、抜本的に改革されることとなった[5]
成人映画の時代[ソースを編集]

翌1957年(昭和32年)からは、「成人向映画」を「成人映画」と改称、ここに初めて「成人映画」という名称・カテゴリが登場する[8]。同年に「成人映画」に指定された作品には、成瀬巳喜男監督の『あらくれ』、川島雄三監督の喜劇映画『幕末太陽傳』といった、前者は第30回アカデミー賞に出品され、後者はキネマ旬報ベストテン第4位に選ばれ、現在では「名作」とされ、レイティングも「G」(一般映画)として上映されている作品がある[8]

映倫が「成人映画」に指定した、小林悟監督の『肉体の市場』(製作協立映画、配給大蔵映画)が1962年(昭和37年)2月27日に公開され、その直後に「わいせつ」容疑で警視庁に摘発される[9]。当時まだ「ピンク映画」なる語は生まれていないが、同作が「ピンク映画第1号」とされる[9]。翌1963年(昭和38年)以降、独立系の成人映画製作会社、いわゆる「エロダクション」による「ピンク映画」が、映倫の「成人映画」指定の大半を占めるようになるが、水上勉原作、田坂具隆監督の文芸映画『五番町夕霧楼』(製作東映東京撮影所、配給東映)や、今村昌平監督の『にっぽん昆虫記』(製作・配給日活)は、発表当時は「成人映画」の範疇とされた[8]

1964年(昭和39年)以降、おびただしい数の「ピンク映画」が製作・公開されたが、映倫が指定する「成人映画」には、篠田正浩監督の『乾いた花』(製作松竹大船撮影所、配給松竹)、武智鉄二監督の『白日夢』(製作第三プロダクション、配給松竹)、中平康監督の『月曜日のユカ』(製作・配給日活)、今井正監督の文芸映画『越後つついし親不知』(製作東映東京撮影所、配給東映)、深作欣二監督の『狼と豚と人間』(同)、加藤泰監督の『幕末残酷物語』(製作東映京都撮影所、配給東映)、中島貞夫監督の『くノ一忍法』(同)、増村保造監督の『』(製作大映東京撮影所、配給大映)等が含まれていた[8]。1965年(昭和40年)には、松竹ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた篠田正浩監督の『美しさと哀しみと』(原作川端康成、製作松竹大船撮影所、配給松竹)、大島渚監督の『悦楽』(原作山田風太郎、製作創造社、配給松竹)、吉田喜重監督の『水で書かれた物語』(原作石坂洋次郎、製作中日映画社、配給日活)が「成人映画」に指定されている[8]

1967年(昭和42年)7月30日に公開された、中島貞夫監督の『大奥(秘)物語』(製作東映京都撮影所、配給東映)以降、「東映ポルノ路線」と呼ばれ、積極的に「成人映画」に指定される映画を同社は製作開始している[8]。日活は、1971年(昭和46年)11月20日に公開された西村昭五郎監督の『団地妻 昼下りの情事』を第1作として、「日活ロマンポルノ」を開始、以降、ポルノ映画専門の製作・配給会社に転向した[8]


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