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梁啓超(弁髪姿)光緒帝
戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう、中国語: 戊戌?法、旧字体: 戊戌變法)とは、中国清朝末期の1898年(=戊戌の年、光緒24年)に実行された、一連の政治改革の総称。明治維新と同様の立憲君主制による近代化革命(維新、上からの改革)を目指す変法自強運動の集大成にあたる。運動を担っていた康有為・梁啓超ら変法派と、彼らを受け容れた光緒帝によって、同年6月11日から改革が実行された。しかしその後、改革を嫌う西太后が、同年9月21日にクーデター(戊戌の政変)を起こしたため、改革は強制的に中止された。実行された日数(103日間)の短さから「百日維新」とも呼ばれる。 清王朝時代の中国において、光緒24年(1898年、戊戌の年)の4月23日(太陽暦6月11日)から8月6日(9月21日)にかけて光緒帝の全面的な支持の下、若い士大夫層である康有為・梁啓超・譚嗣同らの変法派によって行われた政治改革運動。これは3カ月で西太后のクーデターにより挫折し、康有為・梁啓超は日本へ亡命した。 この時点から約30年前の1861年から洋務運動が行われ、中体西用をスローガンに新たな技術と知識を学んだことにより清朝の国勢は一時的に回復したが、旧体制を変えずに西洋技術のみを取り入れる洋務運動は日清戦争敗北により限界を露呈する。 康有為らが用いた「変法」とは商鞅の変法令等で有名な言葉で、政治制度も含めた統治機構全体の変革を指す。具体的には、科挙に代わる近代的学制・新式陸軍・訳書局・制度局の創設、懋勤殿の開設(議会制度の導入)など、主に明治日本に範をとった改革案が上奏・布告された。 改革は、康有為を中心とする帝党と張之洞や文廷式、厳復といった改革積極派が推進したが、次第に帝党の性急さにより官吏層の支持が失われると急進派と穏健派の路線対立が深まり、穏健派も急進的施策の支持が難しい状況となる。急進的な改革により帝党の支持が失われると、西太后が戊戌の政変と呼ばれるクーデターを決行。光緒帝は監禁されて実権を失い、変法派の主要人物は処刑。変法運動は完全に挫折した。 統治機構の近代化により王朝を立て直すことに失敗、加えて義和団の乱後をめぐる清朝の醜態も加わり、1911年の辛亥革命への機運が高まる。 1895年3月、日清戦争の敗戦の報を受けて、清朝の知識人たちは様々な反応を示した[1]。なかでも、ちょうど科挙の試験(会試)のため北京に集まっていた受験生の内603名は、講和拒否や制度改革を求める上書(光緒帝への意見書)を連署で著し、下関条約批准の翌日の5月3日に提出した[2]。この出来事を公車上書
概要
経緯
日清戦争の敗戦.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。上清帝第二書
公車上書(第二上書)は結局、政府に拒まれて光緒帝に届くことはなかったが、書物として刊行されて広く読まれた[2]。また政府内部にも、翁同?のように康有為に親和的な改革派官僚もいた[4]。
公車上書が終わった後も、康有為らは北京に留まり、政治団体の強学会を結成した。強学会は、上海支部も作られたが、会報において年号と孔子紀年を併記していた等の理由から政府の弾圧を受け、1896年1月に解散してしまう。しかし、この強学会の関係者たちが、その後の変法自強運動を主導していくことになる。 1895年から1898年にかけて、変法自強運動(変法運動)と呼ばれる運動が展開された。変法運動は言論活動を軸にして展開された。すなわち、上記の強学会のような学会が発行する会報や、出版社(報館)が発行する雑誌や新聞を主な媒体として、様々な改革案を提示する形で展開された[5]。そのような媒体の代表例として、強学会の『中外紀聞
変法自強運動
変法運動の中心人物である康有為は、上記の第一上書に失敗して以来、儒学者の廖平(常州学派)の影響のもと、儒学思想を応用した体制変革論(孔子改制説・大同思想)を構築していた[2][6]。また、康有為を含む変法運動の担い手たちは、在家の仏教学者・楊文会の影響のもと、仏教にも傾倒していた[7]
変法運動の時期には、当時最先端の思想である社会進化論の紹介も行われた。とりわけ、天津で発行された『国聞報(中国語版)』では、社会進化論者T.H.ハクスリーの諸論文が、厳復の翻訳を通じて連載された[8]。1898年には、それらの連載論文を含む書籍『天演論(中国語版)』が発行され、後世の胡適らに影響を与えた[9]。
変法運動の時期には、女性解放運動(中国におけるフェミニズム)の草分けにあたる運動も展開された[10][注釈 1]。とりわけ、上海で結成された「女学会」の会報『女学報』では、女性教育や女性参政権・男女平等について発信するとともに、女性編集者を一個人としてフルネームで記名した[10]。