戊午の密勅
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戊午の密勅(ぼごのみっちょく)は、日米修好通商条約の無勅許調印を受け、安政5年8月8日1858年9月14日)に孝明天皇水戸藩に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜した事件である。「戊午」は下賜された安政5年の干支が戊午(つちのえ・うま)であったことに由来し、「密勅」は正式な手続(関白九条尚忠の参内)を経ないままの下賜であったことによる(九条関白には武家伝奏から天皇の堅い意志である旨伝え、承認を受けた)。
経緯

安政5年8月5日深更、孝明天皇より幕府へ向け勅諚降下の叡意が示され、内裏にて急遽朝議が開催された。7月にも同じく幕府に宛て勅諚を下したが、その返信が無い状況が1ヶ月にわたって続く中、同様の勅諚を下しても効果が見込めないことから、勅諚を諸藩に直接下すことになった。最有力候補は薩摩藩であったが、1ヶ月前に開明派藩主の島津斉彬が急死したばかりであったため、次点で水戸藩および長州藩に下されることで朝議が決した。幕府寄りの関白九条尚忠の参内のないまま、武家伝奏 久我建通万里小路正房からの説明による執行奉承(事後承認)のみで決したため、密勅と言われているが、形式はあくまでも通常の勅諚である。

水戸藩主宛の勅諚は8月7日深更、武家伝奏万里小路正房の里亭にて水戸藩京都留守居役 鵜飼吉左衛門知信に手渡されることになったが、吉左衛門の持病が悪化していたため子の京都留守居役助役 幸吉知明が代わりに拝した。この際、幸吉は近衛忠煕から、この勅諚が日米修好通商条約締結後の、幕府による朝廷への度重なる非礼を戒め、謹慎中の斉昭を中心にして幕政改革を行うことを目的としている旨説明を受けた。

幸吉はいったん自宅に戻り、大阪蔵屋敷手代・小瀬伝左衛門と変名し、籠担ぎに変装して空籠を担ぎながら東海道を潜行(副使の薩摩藩士・日下部伊三次中山道より下行)、16日深夜に水戸藩駒込邸にいた水戸藩主徳川慶篤に勅諚を伝えた。これに先立ち、薩摩藩士西郷吉之助が、水戸藩家老安島帯刀に水戸藩への勅諚降下・諸藩回送の可否を打診していたが、安嶋は藩状の混乱を理由にこれを断っており、西郷が京に帰ったのと入れ違いに鵜飼が勅諚をもたらしたため、安島は驚愕したという。ただし、西郷が京都を出発したのが8月4日で、密勅の話が孝明天皇周辺に発生したのが8月5日であることを考えると、西郷伝説の一環としての、後日の創作である可能性がある。また、斉昭は勅諚が水戸藩に下ったことを聞き、降下先が一橋だったのなら諸藩への回送と幕政改革をやりおおせるであろうが、慶篤ではとても無理であろう、と言ったという。幕府には、幕府との対立を意図するものではなく、協力して対外政策に当たることを意図するものであるとの関白九条尚忠の添書き付きで、10日に禁裏付大久保一翁を通じて伝えられたが、江戸より水戸に先着することを図っての時期であった。水戸藩から御三家御三卿[注釈 1]には勅書の回送が行なわれたが、その他の諸藩には幕命により秘匿された。長州藩や越前藩等の雄藩には、写しが関白以外の摂家を通じて、縁家筋から送付された。
内容

勅許なく
日米修好通商条約安政五カ国条約)に調印したことへの呵責と、詳細な説明の要求。

御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令。

上記2つの内容を水戸藩から諸藩に廻達せよという副書。

以上の3つに要約することができる。将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡され、幕府を差し置いて水戸藩から全国諸藩へ密勅の写しを回送する指示を出したということは、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたということであったため、幕府は勅諚の内容を秘匿するよう慶篤に命じ、大老井伊直弼による安政の大獄を本格化させることになった。とりわけ、鵜飼吉左衛門から安嶋宛への書簡には、薩摩藩伏見挙兵計画の秘事が記されていたとされ[注釈 2]、幕府にその内容が漏洩したことで安政の大獄ではより厳重な処分となったといわれる。

草案段階では、将軍継嗣問題への言及も見られたが、奏請の結果、割愛となった。
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先般墨夷假條約無餘儀無次第ニ而、於神奈川調印、使節へ被渡候儀、猶又委細阨秤コ總守上京被及言上之趣候得共、先達而敕答諸大名衆儀被聞食度被仰出候詮茂無之、誠ニ以テ皇國重大ノ儀、調印之後言上、大樹公叡慮御伺之御趣意モ不相立、尤敕答之御次第ニ相背輕卒之取計、大樹公賢明之處、有司心得如何ト御不審被思召候。


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