懿公 姜商人
斉
第21代公
王朝斉
在位期間前612年 - 前609年
姓・諱姜商人
生年不詳
没年前609年
父桓公
母密姫
懿公(いこう)は、春秋時代の斉の第21代君主。諱は商人。桓公の子。
生涯※特に注を付さない限り、『史記』「斉太公世家」による。
桓公と愛妾である密姫の間に生まれる。桓公の死後、斉公の座を争った公子の一人であるが、公位を継ぐことはできなかった。商人はひそかに賢士と交わり、人々に施しを行って支持を集めた。
紀元前613年5月、異母兄弟である昭公が亡くなり、その息子の舎が即位した(斉君舎)。しかし、舎の母は昭公の寵愛を受けておらず、舎は国人に軽んじられた。その年のうちに、商人は舎を殺害し、公位に即いた。『史記』によれば、商人は10月に衆とともに昭公の墓の上で舎を殺害し、自ら国君として立った(懿公)。『春秋左氏伝』が記すところによれば、舎の殺害は7月である[1]。懿公は公子元(懿公の異母兄)に斉公の座を譲ろうとしたが、危険を感じた元が拒絶するなど、国内がまとまらない状況があり、9月になって懿公が立ったことが魯に伝えられた[1]。
懿公は公子であった時代、??という人物の父とたびたび狩りをしていたが、常に??の父に負け続けていたため恨みを抱いていた。斉公になると懿公は、??の父の足を切り[2]、??を下僕とした。また庸職(『春秋左氏伝』では閻職)という人物の妻が美人であったので、これを奪って後宮に入れ、庸職を驂乗(馬車の同乗者)に任じた。
懿公4年(紀元前609年)、懿公が申池に遊びに出かけると、陪乗していた??と庸職も遊んだ。庸職が??に「足切りの刑を受けた者の子供め」とからかうと、??も「妻を寝取られたくせに」と言い返した。2人は懿公への恨みで意気投合した。懿公が竹林に遊びに出かけた際、??と庸職は馬車の上で懿公を殺害し、死体を竹林に捨ててそのまま逃亡した。
懿公は即位後に驕慢となって人心を失ったため、斉人は懿公の太子を廃し、衛に亡命していた公子元を迎え入れて即位させた。これが恵公である。
脚注^ a b 『春秋左氏伝』文公十四年
^ 「断足」。『春秋左氏伝』によれば懿公が即位したときに??の父は既に死んでいたため、墓を暴いて遺体の両脚を切断した。
史料
ウィキソースに以下の原文があります。
『史記』 卷三十二 齊太公世家 第二
表
話
編
歴
姜斉の第21代公(前612年 - 前609年)
呂尚(太公望)前1021?-前1000
丁公前999-?
乙公
癸公
哀公?-前863
胡公前862-前860
献公前859-前851
武公前850-前825
詞前824-前816
文公前815-前804
成公前803-前795
荘公贖前794-前731
釐公前730-前698
襄公前697-前686
公孫無知前685
桓公前685-前643
斉侯無詭前643
孝公前642-前633
昭公前632-前613
斉君舎前613
懿公前612-前609
恵公前608-前599
頃公前599-前582
霊公前581-前554
荘公光前553-前548
景公前547-前490
晏孺子荼前489
悼公前488-前485
簡公前484-前481
平公前480-前456
宣公前455-前405
康公前404-前379
Category:斉の君主