懐帝 司馬熾
西晋
第3代皇帝
王朝西晋
在位期間光熙元年11月21日 - 永嘉7年2月1日
(307年1月11日 - 313年3月14日)
都城洛陽
姓・諱司馬熾
字豊度
諡号孝懐皇帝
生年太康5年(284年)
没年永嘉7年2月1日
(313年3月14日)
父武帝
母王媛姫(中才人)
后妃梁蘭璧
年号永嘉 : 307年 - 313年
懐帝(かいてい)は、西晋の第3代皇帝。諱は熾。初代皇帝武帝の第25子。 太熙元年(290年)に豫章王となる。八王の乱の際には史籍に楽しんで世を避けた。後に車騎大将軍・鎮北大将軍となる。永興元年(304年)、甥の皇太子司馬覃が廃されて皇太弟となる。光熙元年11月(307年1月)に異母兄の恵帝が崩御すると東海王司馬越に皇帝に擁立された[1]。即位当初に八王の乱が終結し、司馬越が政権を掌握した[1]。 しかし、東?で王弥が反乱を起こし、永嘉2年(308年)に匈奴の首長劉淵が山西南部一帯を勢力下に収め、漢(後の前趙)を建国して皇帝を称したのをはじめ、中原に居住していた北方・西方出身の非漢民族(五胡)が八王の乱に乗じて自立し、西晋への攻撃を加えるなど既に危機的状況にあり、中央の威令は失墜して西晋の衰亡は目を覆うばかりの惨憺たる状況であった[1]。また、朝廷内でも懐帝と司馬越が反目しあう事態が生じており、司馬越は懐帝の詔と称して丞相を自称するなどした。 永嘉5年(311年)、懐帝が苟晞に司馬越討伐の密詔を出したため、懐帝と決別した司馬越は軍を率い首都洛陽を出て許昌に鎮するが、途中で憂死、西晋の求心力は失われた。司馬越の軍は王衍が引き継いだが、漢の武将の石勒に敗れ、王衍以下10万の将兵が殺害された[1]。懐帝のいる洛陽も劉淵の跡を継いだ劉聡・石勒・劉曜・王弥の攻撃を受け6月に陥落[1]。懐帝は長安に脱出しようとしたが、皇太子の司馬詮と共に劉曜に捕らえられ、軍官民3万以上が死んだという(永嘉の乱)[1][2]。 劉聡に捕らえられ捕虜となった懐帝は平陽に連行され[1][2]、奴僕の服装をさせられて酒宴で酒を注ぐ役と杯洗いをさせられ、劉聡が外出する際には日除けの傘の持ち役にされたりという屈辱を与えられ[3]、人々からは晋皇帝の成れの果てと嘲笑されて屈辱を嘗めつくした[4]。 一方、劉聡は懐帝を儀同三司・会稽郡公に封じ、懐帝の側近である?a
生涯
皇帝に即位
殺害
西晋では、残党によって甥の司馬?(愍帝)が長安で皇帝に擁立され[5][6]、永嘉7年(313年)1月、関中の司馬?政権が活発となると、劉聡は次第に懐帝を疎ましく思うようになった。劉聡は光極前殿において懐帝に命じ、人々に酒を注がせた。光禄大夫の?a・王儁らは立ち上がって慟哭したために、劉聡はこれを不快に思った。同年1月、王儁らが平陽で劉?に呼応しようと謀っていると劉聡に密告する者がいたため、懐帝は平陽で処刑され、崩御した。享年30。[1][5]。また、劉聡は王儁を始め晋の旧臣10人余りを誅殺して、懐帝に賜った劉夫人を自らの貴人に戻し、境内の死罪以下に大赦を施行した。
そして、司馬?も、懐帝と同じような末路をたどることとなり、西晋は滅亡に至った。
年表
太熙元年(290年)、豫章王に封じられる。
永興元年(304年)、鎮北大将軍・都督?城守諸軍事となる。12月、皇太弟となる。
光熙元年(306年)11月、恵帝が死去、司馬熾が皇帝に即位。