憲節皇后
[Wikipedia|▼Menu]

?皇后
南宋の皇后
在位1127年6月15日[1] - 1139年6月29日

全名?秉懿
別称憲節皇后
出生崇寧5年(1106年

死去紹興9年6月2日[2]
1139年6月29日

配偶者高宗
父親?煥
母親熊氏
テンプレートを表示

憲節皇后(けんせつこうごう、1106年 - 1139年)は、南宋高宗の最初の正室。皇后に遙封(不在のまま冊立すること)された。姓は?秉懿(けい ひょうい)。目次

1 生涯

2 高宗の皇后遙封を巡って

3 伝記資料

4 脚注

生涯

開封祥符の人。正五品儀曹・?煥と妻の熊氏の娘。康王趙構(のちの高宗)にとつぎ、嘉国夫人に封ぜられた。

靖康の変後、に連行され、金軍に凌辱を受け、途中で流産した[3]。建炎元年(金の天会5年、1127年)、高宗は南宋を建てて皇帝に即位し、金に抑留されたままの?氏を、皇后に封じた。金に到着後の同年6月7日、高宗に屈辱を与えるため、高宗の生母の韋賢妃(顕仁皇后)、高宗の側室(姜酔媚田春羅)、高宗の娘(趙仏佑、趙神佑など)と共に、洗衣院に落とされた。同9年、男子を1人産んだ。

南宋の紹興5年・金の天会13年(1135年)、?秉懿は洗衣院から解放された。紹興9年・金の天眷2年(1139年)、金で死去した。紹興12年・金の皇統2年(1142年)、韋賢妃が南宋で高宗と再会した際に、死去の事実が伝えられた。は初め「懿節」であった。孝宗の時代に「憲節」へ改諡された。

?秉懿の死が明らかになった翌年の紹興13年(1143年)、側室のうちから呉氏(憲聖慈烈皇后)が新たに皇后に立てられた。
高宗の皇后遙封を巡って

宋史』憲節皇后伝に記された、高宗の?秉懿に対する「16年不娶」の愛の誓いは潤色が加えられている。高宗は帝位が動揺すると考えて父帝と兄帝の帰国は婉曲に拒んだが、?秉懿に関しては積極的であったという。しかし『宋史』潘賢妃伝によると、高宗は側女の潘氏元懿太子の母)を皇后に立てようとも考えた[4]。また南宋では、高宗は逃走中に金軍の襲撃を受けた際のショックで性的不能になった[5]、あるいはペドフィリア[6]との噂も立った。?秉懿に対する夫婦愛の顕示は、それらに対するカムフラージュの可能性もある。

?秉懿本人に関しては、以下の逸話がある。

[7]が金から南宋へ逃亡した際、?秉懿は耳輪の片方を託し、「耳輪のように夫婦相和すことを願います」と言づてした。

伝記資料

『靖康稗史箋證』

宋史

『宋会要輯稿』

脚注^ 『宋史』巻24, 高宗紀 建炎元年五月癸巳条による。
^ 『宋会要』
^ 同時に、柔福帝姫趙富金、?王趙楷の妃朱鳳英らも流産している。『靖康稗史箋證』「二十九日、?朱二妃、二帝姫以墜馬損胎、不能騎行」
^ 呂好問の諫言のため沙汰やみとなった。その後、太子は薨去し、潘賢妃も高宗にかえりみられなくなった。
^ 『朝野遺記』
^ 『ケ粛撰奏札子』によると、靖康の変後、高宗はすぐさま美貌の幼女多数を強引に内廷へ召し集めた。
^ 北宋の武義大夫。靖康2年(金の天会5年、南宋の建炎元年、1127年)、連行の途中に逃亡し、7月に商丘(当時の南宋の都城)に到着した。










の皇后
北宋

昭憲杜太后* / 孝恵賀皇后* / 孝明王皇后 / 孝章宋皇后 / 淑徳尹皇后* / 懿徳符皇后* / 明徳李皇后 / 元徳李皇后* / 章懐潘皇后* / 章穆郭皇后 / 章献劉皇后 / 章懿李太后* / 章恵楊太后* / 仁宗郭皇后 / 慈聖曹皇后 / 温成張皇后* / 仁宗張皇后* / 宣仁高皇后 / 欽聖向皇后 / 欽成朱皇后* / 欽慈陳太后* / 昭慈孟皇后 / 昭懐劉皇后 / 顕恭王皇后 / 顕粛鄭皇后 / 明達劉皇后* / 明節劉皇后* / 顕仁韋皇后* / 仁懐朱皇后
南宋

憲節?皇后 / 憲聖呉皇后 / 成穆郭皇后* / 成恭夏皇后 / 成粛謝皇后 / 慈懿李皇后 / 恭淑韓皇后 / 恭聖楊皇后 / 寿和謝皇后 / 度宗全皇后
*:追封皇后



更新日時:2020年6月11日(木)17:09
取得日時:2020/07/29 07:02


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:10 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef