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出典検索?: "憲法草案要綱"
憲法草案要綱(けんぽうそうあんようこう)は、1945年12月26日に憲法研究会が首相官邸に提出し、12月28日に新聞で報道された、第二次世界大戦後の日本の憲法草案。 戦前からマルクス主義者の立場から自由民権運動を中心に憲法史研究を続けていた鈴木安蔵が起草し、それに対して憲法研究会で出された意見等により修正を重ねて3案まで作られたもので、全58条からなる[1]。小西豊治によれば、憲法研究会の中心人物は鈴木であり、第三次案を執筆したのも鈴木である[2]。 植木枝盛の私擬憲法などの自由民権運動やワイマール憲法、スターリン憲法、大正デモクラシーでの議論の影響を受けている。また小西は、憲法草案要綱が現在の日本国憲法の原型となったGHQ草案のモデルであるとし、押し付け憲法では無いと主張しているが、要綱には戦力の保持や交戦権の放棄などの重要な点についての記述がない。 「要綱」は、 など現行日本国憲法と少なからぬ点で共通する部分を有している。一方、軍に関する規定を設けておらず平和思想の確立と国際協調の義務を定めるものの、押し付け憲法論議で焦点となる戦力や交戦権の放棄についての記述はない。 このほか、詳細については以下の通りである。 作成の中心となった鈴木安蔵は、発表後の12月29日、毎日新聞記者の質問に対し、起草の際の参考資料に関して次のように述べている。明治15年に草案された植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」や土佐立志社の「日本憲法見込案」など、日本最初の民主主義的結社自由党の母体たる人々の書いたものを初めとして、私擬憲法時代といわれる明治初期、真に大弾圧に抗して情熱を傾けて書かれた廿余の草案を参考にした。また外国資料としては1791年のフランス憲法、アメリカ合衆国憲法、ソ連憲法、ワイマール憲法、プロイセン憲法である。 要綱の冒頭の根本原則では、「統治権ハ国民ヨリ発ス」として天皇の統治権を否定、国民主権の原則を採用する一方、天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」として天皇制の存続を認めた。また人権規定においては、留保が付されることはなく、具体的な社会権、生存権が規定されており、この案が新聞に発表された5日後の12月31日には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)参謀2部(G2)所属の翻訳通訳部の手で英訳され、詳細な検討を実施したGHQのラウエル法規課長は、翌年1月11日付で、「この憲法草案に盛られている諸条項は、民主主義的で、賛成できるものである」と評価している(1959年にこの文書がみつかった)。ラウエルは同案を参照し、「幕僚長に対する覚書(案件)私的グループによる憲法草案に対する所見」を提出、これにコートニー・ホイットニー民政局長が署名し、いわゆる「ラウエル文書」が作成された[注 1]。 古関彰一によれば、20世紀の間、この要綱が評価されなかったのは、GHQは日本政府組織を使って日本を間接統治していたため、組織外の憲法研究会を認めるわけにいかなかったという事情が長く影響したため、とされ、それが21世紀初頭ころからは反動から過剰な礼賛になっている、とされる[3]。また、鈴木安蔵が日本国憲法の政府草案に対して、武力の不保持による平和の決意を絶賛しつつも非現実的とする論評をしたことも、古関は指摘している[4]。 小西によれば、国民主権の規定は、アメリカが見逃していた、日本国憲法の核心部分である[5]。
概要
内容
「日本国の統治権は、日本国民より発する」
「天皇は、国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」
「国民の言論・学術・芸術・宗教の自由を妨げる如何なる法令をも発布することはできない」
「国民は、健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する」
「男女は、公的並びに私的に完全に平等の権利を享有する」
天皇については、「国家的儀礼ヲ司ル」として天皇制を存続させる一方で、主権について「統治権ハ国民ヨリ発ス」として、主権在民の原則をとった。
基本的人権については、人権について法律の留保などの条件をつけずに、表現の自由・法の下の平等が認められているほか、労働権・生存権・休息権・老齢福祉人格権など社会保障に手厚い人権保障が認められている。
議会については、二院制を採用しており(GHQ草案は一院制)、全国1区による大選挙区制による一院と職能代表による二院とで構成するかたちをとっている。また内閣については、議会に対して責任を負う議院内閣制を採用している。
司法については、大審院院長・行政裁判所長官・検事総長を公選とし、冤罪に対する刑事補償規定がある。
憲法公布後10年以内に国民投票による新憲法の制定をおこなうことが規定されており、憲法の位置づけを暫定的なものとしている。
「要綱」作成の資料
GHQ草案への影響ラウエルからアメリカ合衆国国務長官にあてた、新憲法に関する1946年1月11日付の文書。国立国会図書館蔵。
国民主権の宣言の歴史と「要綱」の作成経緯
1776年6月12日、バージニア権利章典が採択され、その中に「すべて権力は人民に存し、したがって人民に由来するものである」と記される[6]。
1789年8月26日、フランスの人間と市民の権利の宣言が採択され、その中に「あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する」と記される[6]。
1793年6月24日、フランスでジャコバン憲法が採択される。
18世紀から19世紀にかけて、アメリカの各州の憲法に権利章典等として、権力は人民(people)に存在することが記される。
1868年までに、アメリカ合衆国憲法の権利章典が、各州に批准される[注 2]。
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