慶長豊後地震
[Wikipedia|▼Menu]

慶長豊後地震
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}

本震
発生日1596年9月1日または9月月4日[注 1]
震央.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度18分 東経131度36分 / 北緯33.3度 東経131.6度 / 33.3; 131.6座標: 北緯33度18分 東経131度36分 / 北緯33.3度 東経131.6度 / 33.3; 131.6[1][注 2]
規模   M7.0
被害
死傷者数死者708名
被害地域豊後
出典:特に注記がない場合は『理科年表 平成20年』による。
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
テンプレートを表示

慶長豊後地震(けいちょうぶんごじしん)は、1596年9月4日文禄5年7月12日)、あるいは1596年9月1日(文禄5年閏7月9日)に豊後国(現在の大分県)で発生した地震である。別府湾地震、大分地震などとも呼ばれる。死者800余人[注 3]

この地震によって別府湾にあった瓜生島及び久光島の2島が沈んだと伝えられる。ただし、これらの島は実在自体が未確認であり、瓜生島は島ではなく沖ノ浜と呼ばれる沿岸の港町であったとする説等もある。臼杵藩の記録『稲葉家譜』[注 4]には津波が豊府沖浜を襲い溺死者を出したとある[2]。『府内旧記』[注 5]には「勢家村二十余町を隔てて、瓜生島あり、或は沖ノ浜と云ふ。」とある[3]
概要

震源地は現在の大分県の別府湾口で、マグニチュードは6.9-7.8と推定される。中央構造線断層帯および別府湾-日出生断層帯[4]東部を震源断層として発生した大陸プレート内地震と推定されている。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}文禄5年7月から地震が頻発[要出典]。閏7月9日戌刻(20時頃)に慶長伊予地震が発生し、震源付近と推定される伊予国の他、豊後国においても地震と津波によって大きな被害が発生した。更にこの地震から3日後の閏7月12日申刻(16時頃)に本地震が発生、再び豊後国を地震と津波がおそった。『府内旧記』などに依れば、津波による流出家屋数千戸、死者708名、高崎山(『豊府紀聞』)と由布岳(『イエス会のルイジ・フロア神父の報告』[5][注 6])の山崩れなどの被害をもたらした。

翌日閏7月13日には慶長伏見地震が発生し、畿内で大きな被害が発生した。これらの天変地異の多発により、10月27日、文禄から慶長改元された。地震当時の文書の記録は「文禄五年」であるが、歴史年表上では改元の年であるため「慶長元年」とされる。
津波被害

『由原宮年代略記』によれば、別府湾岸から約2km南、標高180mの場所に有る柞原八幡宮では拝殿や回廊が顛倒し、府内とその近辺の村々は津波で流失した。また地震で消失したとされる瓜生島は、1698年に府内藩の郷土史家戸倉貞則が書いたとされる『豊府聞書』[注 7]の写本あるいは一異本とされる『豊府紀聞』に登場する[6][7]

ルイス・フロイスの年報補遺である『十六・七世紀イエズス会日本報告集第I期 第二巻』には、「町に七ブラサ以上の高さの津波が襲い、凡そ千五百(歩)以上[注 8]も陸地を浸水し、引返す津波はすべてを沖の浜の町と共に呑みこんでしまった」とあり、この1ブラサの長さについては2.2mなど諸説あるが、約1m程度とも解釈される[8]

『玄与日記』には「それよりさかの関迄御着船被成候、去七月十二日之地震之時、かみの関と申浦里は、大波にひかれて家竈かまともなし」とあり、「かみの関」を周防国上関(現・山口県上関町)と比定する説もある[9]一方、大分市佐賀関上浦とするのが合理的とする見解もある[10]
地震発生の日付と時刻

本地震の発生日は閏7月9日(9月1日)と閏7月12日(9月4日)の2説が台頭してきた。また、3説目として、閏7月9日と閏7月12日の両日(複数日)で発生したという主張もある[11]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:49 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef