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をお願いします。(2017年12月)慶長十九年十月二十五日の地震
本震
発生日慶長19年10月25日(1614年11月26日)
規模 M7.7
被害
被害地域日本
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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慶長十九年十月二十五日の地震(けいちょうじゅうくねんじゅうがつにじゅうごにちのじしん)は、江戸時代初期の慶長19年10月25日(1614年11月26日)に発生したと推定される地震。
越後高田で津波被害の記録があり、従来高田領大地震(たかだりょうおおじしん)[1]あるいは高田地震とも呼称されてきたが[2][3]、被害記録は広い範囲に及ぶ大地震?にもかかわらず史料が少なく実体不明な歴史地震とされ[4]、震源については検討すべき課題が多いとされる[5]。 慶長19年10月25日(1614年11月26日)には越後高田のみならず、会津・銚子・江戸・八王子・小田原・伊豆・伊那・駿府・三河田原・桑名・伊勢・津・京都・奈良・大坂・紀伊田辺・伊予松山など広い範囲で大地震の記録があり、発生時刻は午-未刻(12-14時頃)との記録がある[6][7][8][9]。 『続年日記』:越後国高田領大震、人死多、津波も揚打。 『玄番先代集』:十月廿五日津波入る、浜通は観音裏門まで上る、岡は松平外記様御家中山口喜左衛門殿と申衆入孫右衛門屋敷に其時代居住被成、洗足之砌波上ヶ盤浮き申程波参候由咄伝也。 『新編武蔵風土記稿』:池上本門寺五重塔は「慶長十九年の大地震に傾きしを台徳院殿御遊獵の時御覧ありて御修造のことを命ぜられしとぞ」[10]。 『正続桑都日記』:地震。 『慶長見聞書』:小田原宿に御泊、此日大地震。 『赤須上続旧記録抄』:十月廿五日大地震。 『田原城主考付録』:大坂御出陣の前年に大地震有之、其の時右の矢倉ゆり崩れ申候。 『慶長自記』:廿五日未の刻大地震家蔵なと少々損くすれ程にはなし。 『神朝遺文』:廿五日甲辰未刻大震海溢死者衆。 『西島八兵衛寛文書上』:廿五日、大地震。 『当代記』:午下刻に震動が頗る強かったが、顛倒の被害は無く、二条城へ五山衆出仕して広間に在り、庭に走り出したところ天水桶が落下して水を浴びた。 『徳川実紀』:京洛で死者2、負傷370余、二条城破損せず。 『南都年代記』:廿五日未刻大地震。 『難波戦記』:申の刻、天曇、大地震山崩れ、騎馬死す。民家多く顛倒し、堂社仏閣破壌に及ぶ。 『万代記』:十月廿五日、大地震。『田辺万代記』:十月二十五日、大地震。
地震の記録
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