慶長伏見地震
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慶長伏見地震
地震の中、秀吉のもとに駆け付けた加藤清正月岡芳年筆)
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震央の位置
本震
発生日1596年9月5日[1]
震央.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度39分 東経135度36分 / 北緯34.65度 東経135.6度 / 34.65; 135.6座標: 北緯34度39分 東経135度36分 / 北緯34.65度 東経135.6度 / 34.65; 135.6[1]
規模   M7.mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1⁄2[1]
最大震度   震度6:大坂、京都、神戸など[2]
被害
死傷者数死者1000人以上

プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)は、文禄5年7月13日(1596年9月5日子の刻山城国伏見(現・京都府京都市伏見区相当地域)付近で発生した大地震である。慶長伏見大地震とも呼称される。

推定マグニチュードは7.5前後で、畿内の広範囲で震度6相当の揺れであったと推計されている。京都では伏見城天守東寺天龍寺方広寺大仏(京の大仏)等が倒壊し、死者は1,000人を超えたとされる。
概要エンゲルベルト・ケンペル方広寺大仏(京の大仏)のスケッチ[3]。ただし、描かれている大仏は江戸時代に再建されたもので、秀吉が造立した頃の大仏ではない。

現在の京都・伏見付近の有馬-高槻断層帯および六甲・淡路島断層帯震源断層として発生したマグニチュード(M) 7.25-7.75程度と推定される内陸地殻内地震(直下型地震)である[4]。地震による死者数の合計は京都やで1,000人以上を数えたと伝えられており、豊臣秀吉が指月の隠居屋敷を大改修して完成間近の指月伏見城[注釈 1]天守もこの地震により倒壊し、城内だけで600人が圧死したと言われている。

京都では東寺天龍寺二尊院大覚寺方広寺大仏(京の大仏)などが損壊し、被害は京阪神淡路島の広い地域に及び、大坂兵庫(現在の神戸)では家々が倒壊した。また、現在の香川県高松市でも強震を伴ったとされている(『讃岐一宮盛衰記』)。

方広寺初代大仏(京の大仏)の被害は以下の通りである。醍醐寺座主の義演が著した『義演准后日記』によると、大仏の胸が崩れ、左手が落ち(日記の原文は「左御手崩落」で、拝観者から見て左の手、すなわち大仏の右手が落ちたとする解釈もある)、全身に所々ひび割れが入ったという[5][6]。ただし大仏の光背は無傷で残ったという[7]。大仏の造立を命じた豊臣秀吉は工期短縮のために銅製ではなく、木造に変更して初代大仏の造立を進めたが、それが裏目に出た。なお初代大仏の被災現場のシーンを漫画などで描く場合、大仏の頭部が落下したように描かれることもあるが[注釈 2]、地震で初代大仏の頭部が落下したとの記述は『義演准后日記』には見られない。秀吉は大仏が損壊したことに大変憤り、一説には怒りのあまり、大仏の眉間に矢を放ったと伝わる。このような不遜な態度を取った原因について、秀吉は大仏を信仰の対象としてではなく、自らの権力を誇示するための道具としか見なしていなかったためとする説もある[8]。大仏とは対照的に、初代大仏殿は地震による損壊を免れた[7][9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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