慶長丁銀
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慶長丁銀。中央部に両替屋の刻印が見られる。

慶長丁銀(けいちょうちょうぎん)とは、江戸時代の初期、すなわち慶長6年7月(1601年)に鋳造開始された丁銀の一種である。慶長丁銀および慶長豆板銀を総称して慶長銀(けいちょうぎん)と呼ぶ。

また慶長大判慶長小判慶長一分判と伴に慶長金銀(けいちょうきんぎん)と呼ぶ。慶長銀を始めとして江戸時代前半(明和2年(1765年)の五匁銀の発行まで)の銀貨は何れも秤量貨幣であった。

表面には「(大黒像)、常是」および「常是、寳」の極印が数箇所から十数箇所打たれている。また大黒像がやや斜め向きであることから、正面を向いている正徳丁銀と区別される。また「是」の文字の最終2画の足が長い。また12面の大黒像を打った十二面大黒丁銀は幕府への上納用あるいは祝儀用とされる[1][2]

初期のものは切遣いを想定した古丁銀の形状に近く一般的に薄手で[2]、極印の打数が多く形状が多様で素朴なつくりであり、文字が小さい[3][4][5]。後期のものは上下に大黒印2箇所と両脇に6箇所、計8箇所の極印と規格化され、元禄丁銀の形式に近い。ただし中間的なものも少なからず存在し、この区別による鋳造時期の詳細は不明である[4]。慶長期は銀の産出が隆盛を極め各地銀山から銀座へ年間16,000程度の寄銀があったのに対し、その後、寛永年間ごろから日本国内の産銀が衰退し、元禄7年(1694年)には銀座に納入された公儀灰吹銀が1,973貫、買灰吹銀3,297貫の計5,090貫程度となっており[6]明暦3年(1657年)の明暦の大火後の鋳造量は103,484貫余と全体の1/10以下である[7]。形式が規格化された後期とされるもののほうが現存数が少く、産銀量の減少と整合する。
略史

慶長6年5月(1601年)、徳川家康は後藤庄右衛門(金座後藤庄三郎光次と同一人物[8]、または別人[9]との二説あり)および摂津平野の豪商末吉勘兵衛の建議により、の湯浅作兵衛に大黒常是と名乗らせ、常是を長とする銀座を京都の伏見に設立し、慶長丁銀の鋳造が始まった[10][11]

慶長丁銀の発行に先立ち堺の南鐐座(なんりょうざ)職人らは、菊一文字印銀(きくいちもんじいんぎん)、夷一文字印銀(えびすいちもんじいんぎん)および括袴丁銀(くくりはかまちょうぎん)を手本として家康の上覧に供したところ、大黒像の極印を打った括袴丁銀が選定され、慶長丁銀の原型となったとされる[12][13]。また「大黒像」、「常是」、「寳」に加えて沢瀉紋の極印が打たれた澤瀉丁銀(おもだかちょうぎん)は初期の試鋳貨幣的存在と考えられている[14]。『貨幣秘録』に採用されている『常是由諸書』には、慶長3年11月(1598年)に湯浅作兵衛が家康に伏見に召出され、大黒常是の姓を与えられたのは「慶長3年12月28日」附の黒印状から明らかであるとする説があるが、『末吉文書』は慶長6年5月の銀座取立以前の大黒常是についてほとんど言及しておらず、またこの年に豊臣秀吉が他界しているが、その後直ちに家康の天下となったわけではなく慶長3年説は疑問があるとされる[15][16]

この丁銀はを加えた合金を鋳造した平たい「なまこ」型の銀塊に「常是」、「寳」の文字および「大黒像」の極印が打たれたもので、量目(質量)は銀一枚すなわち四十三(約160グラム)を基準とした[3]。しかし実際には20匁(約75グラム)を切るもの[17]から60匁(約224グラム)を超えるもの[18]まで存在するなど不定であり、取引には天秤で量目を定めてから用いられた。

秤量銀貨の通貨単位は、安土桃山時代以前は銀拾すなわち四十三匁を銀一枚とする単位を用いていたが、これは主として賞賜目的のものであり、元亀天正年間ごろから商取引に活発に銀貨が使用されるようになると、貫、匁の表記が多くなった。江戸時代に入ると貫、匁の表記が主流となり、銀何匁(銀何貫)と表記されこれを銀目と称し、また秤量銀貨は主に商人の通貨であったことから、商品取引相場の多くは銀建であった[19]

このような秤量銀貨は取引の度に秤量するという煩雑さを伴うため、銀座および両替屋で賞賜目的には銀一枚(43匁)、および商取引などには500匁(約1,865グラム)毎にまとめ、和紙で包み封印をした、「包銀」の形で取引に使用されるようになった[20][21]

丁銀および豆板銀は「上方の銀遣い」と呼ばれるように大坂を中心とする西日本はもとより北陸から東北日本海側を中心に流通した[22][23]。これは徳川家康が通貨統一にあたり、以前から秤量銀貨が大坂を中心として商人に広く使用されている実情を踏まえ、この形態をそのまま継承し、慶長銀を豊臣秀頼の膝元である上方に流通させることにより、常に天下は徳川のものであることを知らしめ全国統一を円滑に進めるという、したたかな政略のひとつであった。秤量銀貨が商人に広く受け入れられたのは、秤量により実質価値を定めることの合理性、「貫」、「匁」、「分(ふん)」を単位とする十進法の計算の利便性、また馬蹄銀などの銀錠(銀挺、南鐐と呼ばれる銀塊)を高額取引用通貨の中心とする中国との取引が盛んであったことなどが挙げられる。また石見銀山を始めとして、生野銀山蒲生銀山多田銀山対馬銀山など多くの銀山が西日本に偏在し、また大坂銅吹屋における荒銅からの絞銀(しぼりぎん)による灰吹銀の供給が潤沢であったこともその要因である。

幕府は、慶長13年12月8日(1609年1月13日)の御触れで、一両=一貫文=四貫文、翌14年7月19日(1609年8月18日)には、金一両=銀五十御定相場を公布したが、慶長-寛永年間ごろまでの産銀量の増加に伴い、寛文期ごろから銀相場が金一両=銀六十匁前後に下落し[24]天和2年9月(1682年)の相場は金一両=銀六十匁であった[25]

幕府は、それまで流通していた古丁銀、極印銀などの領国貨幣に代え、慶長銀による秤量銀貨の統一を理想としたが、生糸高麗人参など貿易対価の支払いによる多額に上る海外流出のため、地方まで慶長銀が充分に行渡らず、通貨の統一には元禄銀の登場を待たねばならなかった。これは貨幣の品位が低下することによりグレシャムの法則が作動して悪貨である元禄金銀のみが流通し、さらに元禄の吹替えに伴い幕府は領国貨幣の取締りを強化し、良質な極印銀が回収されるようになったことによる[26]

17世紀前半はソーマ銀(佐摩、石見)、ナギト銀(長門)、セダ銀(佐渡)およびタジマ銀(但馬)等といわれる灰吹銀が多量に輸出され、17世紀初期の最盛期の輸出高は年間200トンにも及んだという推定がある[27]

幕府は慶長14年(1609年)令で良質の灰吹銀の輸出を原則禁止とし、決済は慶長丁銀で行うよう定め、その一方で不正な灰吹銀の密輸出が横行し、丁銀および灰吹銀の輸出高の比率は不明であるものの、当時世界有数の産出高を誇った石州銀などは、その多くが慶長銀に鋳造されて輸出されたことになる[28][29]


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