慶應義塾
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慶應義塾

法人番号4010405001654
創立者福澤諭吉
理事長伊藤公平
創立1858年安政5年)
所属学校慶應義塾大学
慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部
慶應義塾高等学校
慶應義塾女子高等学校
慶應義塾志木高等学校
慶應義塾ニューヨーク学院
慶應義塾普通部
慶應義塾中等部
慶應義塾幼稚舎
慶應義塾横浜初等部
ウェブサイトhttps://www.keio.ac.jp/ja/index.html
プロジェクト:学校/学校法人の記事について
Portal:教育
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1862年文久2年)江戸築地鉄砲洲中津藩中屋敷内の蘭学塾。慶應義塾の発祥。画面中央左側築山下の平地。図中央に新銭座町とあるのが慶應義塾に当たり、東には浜御殿がある。江川英龍の「江川太郎左衛門鉄砲調練所」が隣接しており、この江川家屋敷に「分塾」があった。 尾張屋清七版芝愛宕下絵図

慶應義塾(けいおうぎじゅく)は、日本学校法人福澤諭吉1858年中津藩江戸藩邸で開いた蘭学塾が起源。シンボルマークは、ペンマーク。
「義塾」の意味

中国においては、「義塾」とは公衆のために義捐金で運営される学費不要(無月謝)の学塾を意味し、14世紀半ばの末に書かれた陶宗儀輟耕録』にみられるという[1]

日本における「義塾」の先駆は、天明7年(1787年)、のちに蝦夷地探検で功績を挙げる当時17歳の近藤重蔵が、同志と協力して年少子弟のために開いた私塾の名称「白山義塾」であるとされる[2][注釈 1]。また、掛川藩儒員松崎慊堂の日記「慊堂日暦」の文政8年(1825年)1月25日の条に、慊堂が桑名藩の儒者広瀬蒙斎を訪れて「義塾の事を議す」とあり、さらに、寺門静軒天保3年(1832年)に著した「江戸繁盛記」4篇学校の項には、「官学外儒門の義塾」との用例があるという[3]。蓋此學を世に拡めんには学校の規律を彼に取り生徒を教道するを先務とす。仍て吾党の士相与に謀て、私に彼の共立学校の制に倣ひ、一小区の学舎を設け、これを創立の年号を取て仮に慶應義塾と名く ? 「慶應義塾之記」より

「彼の共立学校の制」とは、英国パブリックスクールを指すものとされ、従って慶應義塾の「義塾」とは、中国伝統の語に英国の近代私立学校の概念を付加したものと解されている[1]

明治時代には、慶應義塾の影響により日本全国で「義塾」を称する私塾が設立されたが、『慶應義塾百年史』 下巻によれば[4]、同塾以外にも、幕末期に「義塾」を称する私塾が少なからず創立していたことが判明している。「明治時代の義塾の一覧」を参照
塾訓「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
慶應義塾大学東館に刻まれているラテン語で書かれた福澤の言。なお、三田キャンパス・ステンドグラスにも同文が明記されている

独立自尊

従来の日本の門閥制度や官僚主義を良しとせず、欧州において政府から独立した中産階級(「ミッヅルカラッス」)が国家を牽引し発展させるあり方に独立国のモデルを見た福澤諭吉は「一身の独立なくして一国の独立なし」[5]と論じ、まずは各人の独立を旨とし、塾訓とした。これは、「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」などと説明されている(修身要領第2条[6])。独立自尊という言葉は、福澤諭吉の人となりを端的に示すものとされ、また、福澤の教えの根本をいい表すものともされる[注釈 2]

実学の精神

「常に学問の虚に走らんことを恐」れた福澤が慶應義塾の理念として掲げた指針。これは「実際に役に立つ学問」の意味であると誤解されがちであるが、福澤は単なる知識に終わらず、物事の本質や理念や仕組みを理解した上で体得する学問のことを指している。どうやら福澤が意図したものが今日にいう「科学」のことであることは、「実学」の語に「サイヤンス」とルビを振っていることからも分かる[7]。「役に立つことを主眼に置く学問」が実学と見なされることが多く、今日その意味でも流通しているが、福澤は、新しい事物や事柄の表層だけをなぞって実際的な利便だけを追求する学問については、特に語学工学の勉学における失敗例を挙げながら、こうしたものを軽薄な虚学として福澤は退けている。こうした、基礎学力がないとどんな知識もものにならないとの考えから福澤は学びの手順を明確に示しており(「学問の目的を爰に定め、其術は読書を以て第一歩とす。而して其書は有形学及び数学より始む。地学、窮理学、化学、算術等、是なり。次で史学、経済学、脩身学等、諸科の理学に至る可し。何等の事故あるも此順序を誤る可らず」[8])、この考え方は慶應義塾だけではなく、近代日本の学制の制定に大きく影響している。他に建学理念に「実学」を謳う大学は数多くあるが、英吉利法律学校(現・中央大学、創立者増島六一郎らと共に、馬場辰猪ら福澤門下が前身である三菱商業学校明治義塾にて教育)、商法講習所(現・一橋大学、創設に際して福澤が森有礼に助力)、東京専門学校(現・早稲田大学、創立に際して矢野文雄が助力)には福澤の間接的影響があり、今日でも残っている例である。

半学半教

ある程度学びを修めた者が後生を教え、学び合い教え合う理念であり制度。私塾としての財政圧迫を救い、塾生の学費を低く抑えるねらいがあった(「社中素より学費に乏しければ、少しく読書に上達したる者は半学半教の法を以て今日に至るまで勉強したることなり。此法は資本なき学塾に於て今後も尚存す可きものなり」[8])。やがて社中協力の重要な理念として残ってゆく。塾中に先生と呼ばれるのは福澤諭吉一人で、塾生、教員、義塾社中を、正式行事に際して、時にはニックネーム的に、みな互いに「?君」と呼び合う習慣はここに発しており、今日も残っている。同時に、卒業者も教員も学び続けることをやめてはいけないと釘を刺す訓辞でもある(「然るに年月の沿革に従ひ、或は社中の教師たる者、教場の忙しきに迫られ、教を先きにして学を後にするの弊なしと云う可からず。方今世上の有様を察するに、文化日に進み、朋友の間にても三日見ずして人品を異にする者尠なしとせず。斯る時勢の最中に居て、空しく一身の進歩を怠るは学者のために最も悲しむ可きことなり。故に今より数年の間は定めて半学半教の旨を持続せざる可らず」[8])。

社中協力

元々慶應義塾の経営難に際して資金を調達するために苦肉の策として作った結社としての制度であり、一私塾を法人化するきっかけともなった(当時福澤は「会社」と命名)。これが教員、塾生、塾員を慶應義塾社中として助け合い協力するという理念に発展した。これは、たびたびに渡る慶應義塾の廃学の危機を救うとともに、日本中の大学が同窓組織を作る先駆的な例となった。

一貫教育

慶應義塾では幼稚舎から大学・大学院に至るまで設置している。慶應義塾は小学校、中学校、高等学校、大学・大学院の各段階に相当する学校を複数設置している。大学の各学部学科には塾内進学者の定員が設けられており、進学希望者の数がその定員をオーバーした場合には、当該進学希望者の学業成績順で入学者が決定される。そのため、成績が足りないという理由で希望の学部学科に進学できない者もいる。その場合は、空きのある第2志望以下の学部学科へ入学することになる。なお、必ず慶應義塾大学に進学しなければならないという制約はなく、推薦を辞退した上で他大学を受験することは可能である(医学部進学希望者は慶應義塾大学(医学部のみ)への推薦入学権を留保したまま他大学の医学部・医科大学のみを受験できるなど、一定の例外はある。詳細は各一貫教育校のホームページを参照のこと。)。

塾生皆泳

慶應義塾には『塾生皆泳』という言葉があり、「泳ぐ技能を身につけることが、人として備えるべき重要な素養のひとつである」という水泳教育の理念がある。


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